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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <4>

 終戦を挟む時期の佐藤重夫について、もう少し追う。1945年に入って空襲がますます激しくなり、逓信省勤めの佐藤は、妻子を岡山の親元に疎開させ、自分は広島への転勤を希望した。希望がかなって西部逓信総局(広島市)への辞令が2、3日中に下りるという時、広島に新型爆弾が投下され、相当の被害を受けたとの情報が入った。

 詳細は全く分からない。8月10日に広島勤務が発令され、翌日午後3時の急行で東京をたった。列車を乗り継ぎ、12日夕方に岡山の実家に着いた。そこで引っ越しの準備中、15日に重大発表があるとの知らせを受け、玉音放送を聴いてぼうぜんとなった。

 16日早朝、岡山をたち、正午に広島に着く。街は見る影もなく崩れ去っていた。がれきの中を急いで西部逓信総局へ向かうと、建物は大被害を受けていた。局長の無事に安堵(あんど)したものの、重傷で入院した者や行方不明の職員もいた。

 佐藤は重傷者を見舞い、職員らの宿舎の確保や仕事場の復旧に努めたが、資材も労働力もない状態で、仕事が何もできないことにむなしさだけが募っていった。この状況を本局に報告して援助を求めたが、国中、資材も労働力もない。広島に赴任して1週間に満たないのに、東京に戻れという命令が返ってきただけであった。

 もしも赴任が10日早かったら、佐藤も被爆していたであろう。心に痛みを抱えたまま東京に戻ったが、そこにも建築技師としての仕事はなかった。佐藤は、街の復興に対する責任を感ぜずにはいられなかった。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月8日朝刊掲載)

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