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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <5>

 広島の惨状に触れた後の1946年、佐藤重夫は岡山の実家に帰って農業を始めた。芋や野菜の栽培に取り組み、肥おけを担ぐのも上手になった頃には、妻子に十分食べさせられるほど収穫を得るようになったという。

 農業の傍ら、設計事務所の開設にも取り掛かった。まずは親戚や知人の依頼を受けて住宅の設計を始め、昼は農業、夜は設計の仕事をする日々が続いた。

 そのうち、戦後つくられた戦災復興院の嘱託となり、岡山市の都市復興計画に参画した。復興は佐藤の願いであるから、少しでも時間を見つけては自転車で市内の現状把握に回り、荒廃の状況を写真やスケッチで記録した。

 当時、市の担当課長であった原田倫道氏がそのスケッチの見事さに感心し、市街地の様子をパノラマの形で描くよう勧めた。47年秋、昭和天皇の中国地方巡幸が予定されていて、12月には岡山市においでになられる。その折、天皇陛下に市内の様子を高所からご覧いただくと同時に、佐藤のスケッチを六曲一双のびょうぶに仕立ててご説明に供したいという。

 佐藤は早速、市役所の屋上から四方を見た絵に取り組んだ。夜の作業中、突然停電になり慌てたことが何度かあったが、ようやく12枚の絵が出来上がり、間に合わせることができた。

 天皇皇后両陛下に田中弘道市長がご説明している様子を、佐藤ははるか遠くから見ていて、陛下がしきりにうなずかれている様子に感激したという。この時のびょうぶは現在、岡山市立中央図書館に保管されている。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月9日朝刊掲載)

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