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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <6>

 佐藤重夫は戦後、岡山市の都市計画に従事していたが、当時、広島市の復興計画に当たっていたのが東京大の後輩の丹下健三であった。広島は彼に任せておけばよいと思っていたが、丹下は平和記念公園の建設に専念する。佐藤は1950年に広島大工学部助教授に就き、広島市の建築関係の委員を各種引き受けた。

 同大教授になった56年、土地区画整理審議会の委員として区画整理に当たった。道路の敷設や拡張に伴う換地問題に苦労し、道路幅が理想の広さを取れないなど残念な点も多かったという。

 その後、市都市計画審議会委員も務めた。佐藤の都市計画の理念は自然と歴史、文化を大切にすることだった。特に既存の古民家や社寺を大切にした。

 広島の特徴の一つは、四方に山が見えることである。比治山、黄金山、宇品山、江波山。海上にさえ似島や宮島がある。佐藤は周辺の山との調和を軸として都市計画に取り組んだ。

 どこを改造し、何を保存するかも大切であった。市西部の埋め立て計画に西区井口明神の海蝕(かいしょく)洞が含まれていたが、これは瀬戸内海の水位が高かった時代の名残で地質学上重要だったので、周囲に水を残して保存した。

 安佐北区真亀に高校を建てる際には、中世の山城跡が発掘された。これは歴史的に貴重なものと分かり、遺跡のエリアを避けて校舎を建てる提案をし、何とか保存した。今の恵下山(えげやま)公園の史跡と高陽高校である。佐藤は多くの担当部署と協力し、自然豊かな広島の街づくりに尽くした。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月10日朝刊掲載)

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