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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <7>

 終戦直後の1945年秋、佐藤重夫は東京大の恩師岸田日出刀(ひでと)と、松山市の仕事で久しぶりに会う。荒れた街並みを歩きながら日本の将来を語り合い、帰路の船上で横倒しになっている日本軍の軍艦に衝撃を受け、復興のことを話し合った。その際、岸田が「日本には日本の建築を造りたいね」としみじみ語ったことを、佐藤は生涯忘れることがなかった。

 佐藤が設計した建築物はもちろん、広島市の都市計画の仕事にも、この思いが込められていた。今、広島の街を歩くと、豊かな川の流れと樹木が美しく、幅広の道路の延長線上には程よい高さの山が見える。建物に気を取られず、落ち着いた心持ちで歩けるのは、奇抜な色や形の建物が少ないからであろう。個性を表現しようという野心が透けて見える建築を、佐藤は非常に嫌っていた。

 瀬戸内海沿岸の街の色は、真砂土によるものだと佐藤は考えていた。これが豊かな海や山の色と併存し、落ち着いた品格のある風景をつくり出している、と。一時は原爆で壊滅した広島の街、それが今、国内を代表する美しい街に生まれ変わっている。

 ただ、佐藤は、広島の景観は海があってこそ成り立つと思っていた。街から海を見た風景、海から街を見た風景の美である。しかし、海岸に高いビルが立ち並び、海と陸とを遮断してしまった。  とりわけ、宮島から見る対岸の風景について、かつての美しさが損なわれてしまったと佐藤は嘆いた。瀬戸内海沿岸の歴史と文化、街並みの保存を亡くなるまで訴え続けていた。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月13日朝刊掲載)

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