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連載・特集

緑地帯 真宗学寮あまり風 岡本法治 <3>

 昔の真宗学寮は、講義が会読(かいどく)(問答)形式だったようで、学寮生が会読するのを聞いて高松和上が指導し、結論を出されていた。

 問者と答者(たっしゃ)のほか、指導者を典議、結論を出す者を判者という。昔から「判者なき会読はするな」といわれている。論ずる者にはそれぞれの言い分があり、最後に結論が出なければ、言い争いのまま終わってしまうからである。

 議論して争うので、勝つ者もあれば負ける者もいる。勝てば得意になり、負ければ悔しい。まるで煩悩の塊のようなことで、坊さんの世界にはふさわしくないが、その中に阿弥陀仏の慈悲が語られるのだから、不思議である。

 勝てば喜んで勉強するし、負ければ悔しいので勉強する。どちらにしても学問が進む。自分が学んだ分を問答するので、初心者から長年学んだ者まで対等に論議できる優れた勉強方法である。

 会読は、ある公的な主題を異なる立場に分かれて議論するディベートや、テレビで話題になった「白熱教室」とは違う。例えば「六字釈」というテーマがある。「六字」とは「南無阿弥陀仏」を指し、その意味を尋ねてゆく。論ずるほどにありがたく、尊い。教義を覚えて賢くなるのではなく、深い慈悲に頭が下がるのである。

 会読では、問いが答えをリードする。しかし、誘導尋問ではない。答えが分かっていてそこに導くのは、会読とはいえない。

 会読は、ライブである。今まで誰ひとり問うたことのない問いが生まれ、誰ひとり思いつかなかった答えが現れる。新しい如来が誕生する瞬間である。(真宗学寮教授=東広島市)

(2017年7月8日朝刊掲載)

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