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連載・特集

緑地帯 父をたずねて 田谷行平 <3>

 父は印刷会社で働く傍ら、マルクス主義の文献に触れていく。日本労働組合全国協議会(全協)の活動家だった岨(そわ)常次郎氏らと共に学んだ。

 典型的な貧民層の生活で、すでに胸を病んでいたが、その労苦によって詩人の感性を鍛えた。日本出版労働組合広島支部の詩人、村上詩郎らと交流し、プロレタリア文化運動に関わっていく。

 白島(広島市中区)の家から比治山町(南区)の会社に通う道、南を望むと帝人広島工場の高い煙突があり、力強く吐き出される煙に闘志をかき立てられた。「煙突」と題した父の詩がある。文中の「バット」はたばこの銘柄だ。

 <蒼空は限りなく広い、/そのままで、/秋の日射しを亨けてゐる。(中略)胸のうちをすっきりとさせる、/煙突よ、/吐き出せ、吐き出せ力強く。(中略)「死ぬだけが俺達に自由さ」/虚ろに笑ふ/友よ!底力を出せ。//勘定日の夜、/街は愁ひで一杯だ。/新らしいバットの封を切る。>

 1928年3月、全国で共産党員らが一斉検挙されるなど、運動への弾圧は強まっていた。父は、活動家の救援を行う日本赤色救援会(赤救)で運動した。その仲間から、画家の丸木位里氏らと共に劇団「広島プロレタリア劇場」を創設した中川秋一氏を紹介され、公演を手伝っている。

 32年3月には、広島全県で活動家が一斉検挙される。父はそれを逃れ、福島町(西区)の拠点から「赤救広島地区再建ニュース」を発行、検挙された仲間の家族を励ます運動をしたが、自らも5月に検挙された。(画家=広島市)

(2017年1月21日朝刊掲載)

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