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連載・特集

緑地帯 父をたずねて 田谷行平 <4>

 画家の山路商氏は、大正末の1924年に小冊子「ダダイスト山路商の芸術宣言」を出し、比治山町(広島市南区)にあったアトリエは芸術家のたまり場だった。

 詩人の坂本ひさし氏が書き残した「田谷春夫の思い出」に、その風景が記されている。30年代半ばと思われ、抜粋すると、

 <私が初めて田谷春夫と会ったのは、山路商のアトリエだった。田谷は獄舎生活を送っていたとあって、憔悴(しょうすい)しきってはいたが、清澄な眼眸(まなざし)の奥にとけるときのない苦渋の雲原がある人とも思えた。山路は言った。「田谷君にローマ字会の話と、今、君が出しているRBKのリズム研究の話を聞かせてやってくれや。おんぼろになったリアリズムを修繕するのだ」と。>

 ローマ字会とは、日本式ローマ字の体系をつくり、日本語の表記を話し言葉主体にすることを目指す団体である。坂本氏はその運動に共感し、広島ローマ字会リズム文学研究会(RBK)を組織していた。「表意漢字、音節かな文字で教育から政治までが支配されているのを打破し、人間的表現の自由を開く」。熱弁する坂本氏に父は共感し、参画する。RBKに印刷部をつくって機関紙を発行、仲間の詩人、歌人らと万葉集から現代詩までの音韻の研究をし、韻律詩を実験創作した。会員は250人を数えたが、37年に検閲で廃刊に追い込まれた。

 山路アトリエ関係の文芸誌、詩歌集のほとんどは、父が印刷を手掛けた。山路氏の挿絵による坂本氏の「瀬戸内海詩集」は、装丁も手掛けた自慢の作品であった。(画家=広島市)

(2017年1月24日朝刊掲載)

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