×

連載・特集

緑地帯 父をたずねて 田谷行平 <6>

 祖父の七太郎は亡くなった時、83歳だった。健康無類だったが、原爆の一閃(いっせん)に傷ついてひと月で死んだ。傷口から膿(うみ)が流れ、ウジが湧いた。父の春夫は祖父の痩せた手を抱いて、ぼろ切れで膿を拭いてやった。

 祖父は、誰も憎まない平和な目をしていた。掘っ立て小屋の焼けたトタンの覆いの下で、戦争のおまけのような配給のミカンの缶詰の汁をすすって、満足して死んだ。父の名を呼びながら。

 太田川には清い水が流れ、風が光っていた。砂を掘って死体を横たえ、木を積んで火をつけた。闇が迫り、辺りは異臭に包まれ、立ちつくした。戦争はむごい。

 父はやがて広島第二公共職業補導所に勤め、多くの印刷技術者を育てる。職員から所長になった。補導生が成長していくのはうれしかったようだ。

 人を使うのも、人に使われるのも難しいが、前途には良き立て直しがあるのみ。そのはずだったが、幼少時に繰り返した肺炎による気管支拡張症が悪化し、入退院を繰り返すようになった。

 父の当時の日記から。「家を離れていると、行平がいやに大人びて来たように思える。風景の鉛筆画を見せてくれる。年齢の割には上手(うま)いと思う。私は小学生時代、図画は不愉快な記憶が残るほど不得意だった」

 家に居る時の父はよく本を読んでくれ、ゴッホの伝記の朗読は、母と楽しみにしていたものだ。「ローラースケートが欲しい」とお願いすると、「欲しい物は自分で工夫して作れ」。下駄(げた)にコロを付けて走った。(画家=広島市)

(2017年1月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ