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連載・特集

緑地帯 師の教え 築田哲雄 <2>

 信楽峻麿先生は1926(大正15)年、広島県の中央部、豊栄(現東広島市)にある浄土真宗本願寺派教円寺に生まれた。少年時代に姉、母、兄と続けて結核で失い、自身も同じ病気を患った。いつも死と隣り合わせの青少年期だったという。

 その頃の先生の逸話がある。中学での軍事教練の一環として、学校近くの山中でウサギ狩りをするから、家から竹ざおをもって参加するようにと指示された。母らを亡くした悲しみにあった信楽少年は、寺の息子は魚釣りも禁止されており、ウサギ狩りなど無益な殺生はできないと拒んだ。そのために、将校や教師から厳しい叱責(しっせき)を受け、その後も問題児としてマークされたという。

 仏教の不殺生の教えを盾にウサギ狩りに抵抗した信楽少年も、青年師範学校1年だった1945年7月、学徒出陣で北海道旭川の部隊に入隊した。この時、軍隊に疑問を抱くことはなく、命懸けの戦いを覚悟した。やがて迎えた敗戦のショックとともに、当時の自身と社会への問題意識が先生の心に芽生え、離れなくなった。

 世間には、戦前の軍国主義教育や思想弾圧などの状況を考えれば、教団やその指導者の戦争責任を問うことは酷だとする意見もある。だが、先生は、仏教者の戦争協力が、弾圧を避けるための一時しのぎではなく、教団が長い歴史の中で作り上げてきた仏教理解そのものの中にあるのではないかと思い始めた。

 その疑念は、先生が京都へと上り、本格的に仏教を学び始める動機となった。(広島仏教学院講師=広島市)

(2016年12月10日朝刊掲載)

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