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連載・特集

緑地帯 師の教え 築田哲雄 <3>

 1945年8月15日の敗戦から2カ月後、信楽峻麿先生は北海道旭川の部隊から復員した。原爆を受けて廃虚と化した広島の市街地を通り、豊栄(現東広島市)のお寺へと帰った。

 戻った先生の顔を見て、幼友達の母親から「あんたは生きて帰れてよかった。うちの息子は死んでしもうた」と言われたという。この言葉が、先生の心の奥深くまで突き刺さった。それからは、この母親に会うたび、しんどさと負い目を感じ続けた。それは同時に、この戦争は正しい聖戦だと教団を挙げて教え、多くの門信徒を戦場に送り出してきた僧侶としての負い目でもあった。

 私は龍谷大で、自らの戦争体験を誠実に語る先生の姿に触れた。先生の講義を聴きながら、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した父のことがしきりに思われた。私は父と会ったことがない。唯一のつながりは、父が戦争に向かう時、家族や門徒と本堂の前で撮った壮行会の写真だけだ。私は後列に写る母のおなかの中にいた。

 父の思い出がない私は、よくアルバムを開いてこの写真を見た。中央に写る父の姿は、軍服の上に袈裟(けさ)を掛け、手に数珠を握るという奇妙な姿である。

 袈裟と軍服は相いれない装いだが、それが戦争に行く僧侶の正装だったのかもしれない。壮行会の場にいた門徒から聞いた印象深い逸話がある。出発前になって父の姿が見えなくなり、捜したところ、本堂で本尊の前に独りで座っていたという。

 この時、父は軍服、袈裟姿で何を問うたのだろうか。(広島仏教学院講師=広島市)

(2016年12月13日朝刊掲載)

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