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連載・特集

緑地帯 師の教え 築田哲雄 <6>

 この秋に営んだ信楽峻麿先生の三回忌法要の際、助手の役を長年務めたお弟子さんからこんな話を聞いた。先生が亡くなった後、机のデスクシートの下に挟んで残された1枚の書が見つかった。  そこには「孤高」と書かれ、これが先生の座右の銘だったであろうというのだ。

 仏教学者としての信楽先生の歩みは、教団や先輩学者の戦争責任を厳しく問いただしたがゆえに、孤独の歩みを強いられた。先生は他を批判するたび、「天に唾する」とその矛先を自分にも向けた。その生き方から私は、仏道とは孤独で、自分に何より厳しい歩みであることを教えられた。

 先生は、釈尊の教言にある「智(ち)ある人は独立自由をめざして、サイの角のようにただ独り歩め」(「スッタニパータ」から)や、世間の権威や風評になびくことを拒んだ親鸞の「人倫の哢言(ろうげん)を恥じず」(「教行証文類」から)の言葉を引いては、「徒党を組むのは不真実の証拠。真実はいつも孤独」とよく語った。

 「仏道は孤独の歩み」であるのは、仏教の「さとり」「めざめ」は「みんな一緒にまとめて」というわけにはいかないことによる。仏は一人のめざめをひたすら待つのである。

 政治や経済では「多数の幸福のためには一人の不幸や犠牲はやむを得ない」という論理もまかり通るが、仏道を貫く根本精神は「世に一人でも未覚者がいるかぎり仏道は成就することはない」。だから、先生が言うように、仏道の歩みは「孤独」であり「永遠の未完成」とならざるを得ない。(広島仏教学院講師=広島市)

(2016年12月16日朝刊掲載)

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