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社説・コラム

『潮流』 ギリギリの線を探る

■ヒロシマ平和メディアセンター長 金崎由美

 米国の雑誌「ニューヨーカー」は、J・D・サリンジャーの小説「フラニーとゾーイー」や哲学者ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」などの作品を世に出してきた。その看板記者だったリリアン・ロスへの関心が湧き、20年ほど前に自叙伝を取り寄せて英語学習がてら読んだ。

 本文には誤植で「1945」とあるが、正しくは1946年8月のエピソードが印象に残っている。

 緊張した面持ちのウィリアム・ショーン副編集長から、駅の売店に行って売れ行きを確認するよう指示された。平穏だった。報告すると「街中が大騒動だと思っていた」と残念がっていたが、直後から編集部の思惑通りの大反響に。副編集長が担当したジョン・ハーシー執筆のルポ「ヒロシマ」掲載号である。

 検閲をかわし、広島の被害の悲惨さを原爆投下国に知らしめた名作といわれる。だが実際には、米陸軍による事実上の検閲に応じていたという。編集部から原爆開発の主導者だった陸軍中将のレスリー・グローブスに渡したとみられるゲラが、現存していた。

 それでも、作品の意義は変わらない。ゲラに刻まれたグローブスの筆跡と雑誌の文面を比べると、必ずしも指摘通りには修正していない。米国立公文書館でゲラを入手した神戸市外国語大の繁沢敦子准教授は、みすみすお蔵入りさせず、かつ内容では妥協せず出版できるようギリギリの線を探る覚悟だったと推測する。

 その頃、中国新聞を含む日本の報道機関は連合国軍総司令部(GHQ)の発したプレスコードに縛られていた。占領政策に背くような報道が厳しく検閲された一方、報道機関の忖度(そんたく)や自己規制もあったと指摘される。ハーシーと副編集長らを思い「自分ならどうしたか」と考えている。困難や圧力に立ち向かうべきことは、過去の話でない。

(2021年9月23日朝刊掲載)

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