×

ニュース

福山空襲 孫に継承託す 元教諭の藤井さん「炎に囲まれた夜」証言

 福山空襲があった68年前の8月8日夜、被害が最も甚大だった福山市中心部の南国民学校(現南小)で宿直をしていた元教諭女性がこの夏、初めて小学校教諭の孫に体験を伝えた。福山市御門町の元教諭藤井達子さん(92)。「周囲が焼き尽くされた恐ろしい光景を見た人が減っていく」。同市神辺町の湯田小で、同じく教壇に立つ細川光代さん(33)に、記憶の継承を託した。(久保友美恵)

 「焼夷(しょうい)弾が降る音がザーッザーッと響き、蒸し焼きになりそうな熱い防空壕(ごう)内で必死に耐えた」。校内で育てるサツマイモなどが盗まれないよう宿直していた藤井さん。寝る直前に空襲警報が響き、校内の壕に駆け込んだという。

 空襲が収まって外で目にしたのは、校庭一面に突き刺さった焼夷弾が火を噴く様子や、炎に包まれた校舎。足の膨れ上がった女性の遺体もあった。

 「今も空襲の惨状は脳裏から離れない」。しかし、その様子は数十年前に1度、長女に文章で伝えたきり。小学生時代の細川さんに、体験を聞かれたこともあったが、口をつぐんだと振り返る。

 だがこの夏、細川さんから「学校の子どもたちに体験を聞かせて」と頼まれ、気持ちを改めた。「恐ろしい光景を見た人が少なくなっていく。自分にしか話せないことがあるかもしれない」

 5日、細川さんが構えるビデオカメラの前で、同じ空襲体験者の近所の男性と記憶を語り合った。「焼夷弾が落ちるたびに防空壕の壁が崩れて…」。孫に伝えるつもりで語った。そして翌6日、平和学習のため登校した湯田小の5年生約120人が、生々しい証言に聞き入った。

 祖母の体験を初めて聞いた細川さんは「あまりに壮絶で、今まで話せなかった理由が分かった気がした。これからは私がこの言葉を子どもたちに伝えたい」。そう決意した。

福山空襲
 1945年8月8日午後10時25分ごろ、91機の米軍B29爆撃機が飛来。約1時間にわたって市街地に約556トンの焼夷(しょうい)弾を投下した。市街地の約8割にあたる314ヘクタールが焼失。市によると354人が犠牲になり、焼失家屋は1万179戸に上った。

(2013年8月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ