『今を読む』 東北大大学院准教授 越智郁乃(おち・いくの) 米軍基地と沖縄
21年9月27日
70年 死者悼む民俗も変えた
郷里の愛媛から広島大の大学院へ進学した私にとって、お盆に墓へ供える色とりどりの紙で作った盆灯籠は驚きだった。同じ瀬戸内沿いでも、いかに習俗が違うのか、と。こうした民俗文化は、過去のもの、やがて廃れゆくものと思われがちだ。だが、かつては手作りでもあったと聞く盆灯籠が、今やスーパーマーケットやコンビニエンスストアで買えるように、社会の変遷とともに移ろいつつ生き続けるのが、民俗である。
私が研究する沖縄の墓と葬送の習俗も例外ではない。沖縄はもともと、日本本土とは大きく異なる文化圏である。そこに、戦後は27年にもわたった米軍統治と、今も残る巨大な米軍基地の存在が、大きな影を落としてきた。
沖縄の古い墓は大きい。集落のはずれの斜面に横穴を掘り込んで表面を琉球石灰岩で亀の甲羅のようにしつらえた亀甲墓や、家のような形が特徴的な破風墓などがある。いずれも初めて見ると石造の家のように感じられる。
ところが、こうした墓は戦後は減り続けている。
まず、火葬が増えて今や99%に達した。こうなると、遺体が納まる大きな墓を用意する空間的な理由が失われる。近年新しく建つ墓のほとんどが、日本のどこにでもあるような塔式墓だ。「雑草が多い場所でハブにおびえつつ墓の草を刈るよりも、平地にある管理型の霊園が便利だ」といった声も、墓の変化を支える。墓参や法要で供える豚肉や昆布の煮付け、米粉の餅などの沖縄料理も、今やスーパーで買うのが当たり前。こちらは、盆灯籠と同じく商品経済が浸透した結果だ。
こうした変化は、広島など沖縄以外の日本とは明確に異なる要因も大きい。それは米軍基地の存在である。
沖縄戦で日本軍の飛行場を占領した米軍は、戦後これを拡大させた。1952年に発効したサンフランシスコ講和条約で沖縄が日本から切り離されると、米軍は基地周辺の土地をさらに大規模に接収した。沖縄戦を生き延びた住民は、ようやく戻った故郷から再び追い出された。家や田畑だけではない。村の聖域である御嶽(うたき)や墓さえもブルドーザーの下敷きになった。
土地や墓を奪われた人々はどうしたのか。私が那覇市で聞き取った話はこうだ。「父親は戦争で腕を失い働けなかった。代わりに母親が、奪われた自分たちの土地に建てられた米軍の軍属住宅でメイドをした。おかげで、新しく墓を建てることができた」
場所によっては、基地内に墓が取り残された。今も、米軍の入構許可を得てフェンスを抜け、墓参りをする人々がいる。とはいえ、火気厳禁であって、墓前に線香をあげることすらかなわない。
戦後の沖縄では、軍事施設だけではなくコンクリート建材による軍人や軍属の住宅も次々に建てられた。その工法は基地の外へ伝播(でんぱ)し、コンクリートの建築が増えた。沖縄は台風が多いうえに木材が乏しい。木造家屋のシロアリ被害も多かった。コンクリートが喜ばれたのである。
墓も例外ではない。コンクリートを流し込んだだけ、コンクリートブロックを積んだだけの簡素な墓が全島にあふれている。戦後、沖縄本島北部から都市部へ移って基地労働者になった人の中には、交通の不便な故郷の墓参りで仕事を休むとクビになるため、同じ集落の出身者を募ってコンクリート製の手づくり共同墓を建てた例もある。
当時、米軍が持ち込んだ最新素材だったコンクリートは人々の暮らしを文字通り「支え」てきた。そのコンクリートを、人々が「よいもの」として「死者の家」たる墓にまで使ってきたのは、極めて当然のことなのだろう。
沖縄以外の戦後日本には、民俗にそれほど大きな影響を与える存在はなかったかもしれない。それに対し、戦後沖縄では米軍が人々の暮らしを規定してきた。日米安保条約の「恩恵」をよそに、この国が基地を沖縄に押しつけてきたからにほかならない。講和条約の署名から70年になる9月を迎え、忘れてはならないことである。
78年愛媛県新居浜市生まれ。広島大大学院社会科学研究科博士課程修了。立教大助教などを経て20年から東北大大学院文学研究科准教授。専門は文化人類学・民俗学。著書に「動く墓―沖縄の都市移住者と祖先祭祀(さいし)」など。
(2021年9月25日朝刊掲載)