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連載・特集

[考 fromヒロシマ] 原爆文学 「世界の記憶」に 峠三吉ら3人の日記やメモ 申請の動き再び

被爆直後 克明・生々しく

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)登録実現を目標に、原爆詩人の峠三吉(1917~53年)ら3人の文芸作家が被爆直後に書いた日記や直筆メモ計5点の申請を求める動きが広島市内で広がっている。約76年を経た資料の散逸や劣化を防ぎながら、原爆文学作品を世界へ広め、核兵器廃絶と平和の礎にしたい、という思いがある。3人が残した代表作の「原点」に光を当てるとともに、申請の意義と課題を探る。(桑島美帆)

 申請する5点の資料は、峠が1951年に出版した「原爆詩集」の最終草稿、日記とメモ▽詩人栗原貞子(13~2005年)が代表作「生ましめんかな」などをつづった創作ノート▽作家原民喜(1905~51年)が記録した原爆被災時の手帳。国内推薦から漏れた2015年に続く挑戦となる。市民団体「広島文学資料保全の会」(土屋時子代表)が呼び掛け、今回も広島市との共同申請という形を取る。

 いずれも、原爆文学を代表する被爆作家が、1945年8月6日直後に書き残した希少な一次資料。占領軍によるプレス・コード(検閲)が失効した後、広く知れ渡った作品の土台となった。海外でも翻訳出版されていることや、「真正性」「完全性」などの登録要件を満たしているという。

新たに2点追加

 「3人が持つ言葉の力は、世界で初めて核兵器が落とされた都市の惨禍がいかにすさまじかったかを生々しく表現している」と土屋さん。「人類が忘れてはならない歴史的文書であり記録」と言い切る。

 資料の管理体制が重視されるため、前回は既に原爆資料館などに寄贈、寄託されていた3件のみを申請した。2016年8月、共産党中央委員会(東京)が峠の日記とメモを資料館に寄託したのを受け、今回新たに加えた。

 峠の日記は、1945年1月1日から11月19日にかけて、万年筆で日々執筆した大学ノート。8月6日は「急にあたりの気配の異様なるを感じ眼をやれば外(と)の面(も)に白光たちこめ二階より見ゆる畑や家並みの其処其処(そこそこ)より音なく火焔閃(かえんひらめ)き―」と約1ページ半にびっしりと書いている。

 革張りの手帳には、冒頭に鉛筆で「昭和二十年八月(祖国危機に瀕(ひん)してより)」とある。負傷した知人を広島陸軍被服支廠(ししょう)(現南区)で懸命に看病したことや、「異様な悪臭」の中で女子学生たちがうめき苦しむ姿を克明に記す。峠はこの日記とメモを基に、原爆詩集を完成させ「ちちをかえせ ははをかえせ」で知られる「序」や「倉庫の記録」などを発表した。

にじむ心の叫び

 広島大名誉教授で同会顧問の水島裕雅さん(79)=千葉県=は「愛国心に満ちたロマンチストだった峠が、8月6日を境に原爆詩人になっていく様子が日記から分かる」と分析。「あの状況を静かに観察し、感情を押し殺して淡々と書いている。だからこそ心の叫びが伝わりやすい」と言う。

 鋭い洞察力や表現力は栗原の創作ノートと民喜の手帳にも共通する。表紙に「あけくれの歌」と書かれた栗原のノートには、被爆直後の混乱の中で誕生した命の尊さを詠んだ「生ましめんかな」のほか、体験に基づいた短歌形式の「原子爆弾投下当日」「己斐国民学校収容所にて」などが記され、生涯、反核を訴えた栗原の原点がうかがえる。

 爆心地から約1・1キロの幟町(現中区)の生家で被爆した民喜は、避難した広島東照宮(現東区)で、翌日から手帳に記録し始めた。修羅場を刻々と書き留め、幼いおいの死などを記録した手帳は小説「夏の花」(47年)の下敷きにもなった。

 水島さんは「原爆体験者が数少なくなっていく中、原爆文学資料はさらに大切になっていく。ヒロシマの遺産として人類の未来のために残し、世界へ発信していくべきだ」と強調する。

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登録高い壁 鍵握る官民連携

 「世界の記憶」は、後世に伝えるべき世界的な歴史的文書の保存や、アクセス促進を目的とする事業。1995年に制度が始まり、日本からは福岡県田川市と福岡県立大が申請した「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」、日本と韓国の民間団体が申請した「朝鮮通信使に関する記録」など計7件が国際登録されている。

 いずれも、官民挙げた機運の盛り上げが奏功している。自治体も国会議員やユネスコ関係者に熱心に働き掛け、地場企業に賛同を募るなど、数年がかりで取り組んでいた。

 国内政治や国家間対立の影響も常に受けやすい。中国が申請した旧日本軍による南京大虐殺関連の資料が2015年に登録され、その後韓国などの民間団体が従軍慰安婦の被害を訴える資料の登録を申請。日本政府は反発し、申請条件や審査を巡り改革を求めたため、審査は止まっていた。

 今年4月からの新制度は、各国政府を通じた申請が前提だ。文部科学省が国内公募を10月15日に締め切り、11月に国内候補を2件に絞った上で、政府がユネスコへ申請書を提出する。

 実現は簡単ではないが、「広島文学資料保全の会」幹事で広島大名誉教授の成定薫さん(74)=廿日市市=は「資料について知る遺族もわれわれも高齢化しており、今回こそはという思い。広島市と意思疎通を図り、原爆文学資料の重要性を広く訴えたい」と力を込める。一方の市文化振興課は「側面支援をしていく」と言うにとどめる。

 同会によると、国内外の200人以上が賛同人に名を連ねている。ただ、資料が国や時代を超えた普遍的価値を持つことを世界に理解してもらうには、まず地元市民の間で認識を深めてこそ。「官」も、私たち「民」も問われている。

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人類への警告 命懸け記録

「広島花幻忌の会」顧問 原時彦さん

 原民喜の文学を研究・継承する「広島花幻忌の会」顧問の原時彦さん(87)=広島市南区=に叔父である民喜から受け継いだ思いを聞いた。

 ―半年間、八幡村(現佐伯区)で民喜と一緒に暮らしたそうですね。

 上柳町(現中区)にあった自宅が原爆で全焼し、民喜とうちの家族が疎開先で同居した。

 広島陸軍偕行社付属済美学校の5年生だった私は河内村(現三次市)へ疎開していたため被爆を免れたが、1年生だった弟の文彦は、縮景園付近で遺体で見つかった。県立広島第一中(現国泰寺高)1年だった兄の邦彦は奇跡的に助かったものの、原爆症で髪は抜け、洗面器に大量に血を吐いていた。

 兄と弟のことは作品にも書かれている。ふだんは無口で、民喜と原爆のことを語り合ったことはないが、兄が苦しむ姿を見ていたはず。「ハゲがおる」と兄をはやし立てた子どもたちに怒りを爆発させたことがあった。

 ―「原爆被災時の手帳」から何を感じますか。

 3ページ目に「ココマデ7日東照宮野宿ニテ記ス」とある。被災直後に見たことを鉛筆でどんどん書いている。命懸けで記録した真実であり、「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」という一文には「書き残さねば」という決意を感じる。民喜はこの手帳を基に作品を執筆した。「原爆を使えばこうなる」という人類に対する警告の原点だろう。

 ―6年前、手帳を原爆資料館に寄託しました。

 世界に1冊しかないが、戦時中の物だから紙質も悪く、相当傷んできた。鉛筆書きのため自然に字が薄れ、最後は消えてしまうのかと不安になり原爆資料館に預けた。私自身は、民喜の手帳や作品だけでなく、思いも相続するのが義務だと心に決めて活動している。

 ―なぜ今、「世界の記憶」なのでしょうか。

 核兵器保有国は今、競うように核兵器を持っている。安易な考えで使えば、地球は滅びる。申請する資料は、被爆作家の実体験の記録だ。人々の記憶が薄れる前に重要性を人類が再認識することが、戦争を繰り返させないことにつながる。

(2021年9月27日朝刊掲載)

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