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連載・特集

ヒロシマの記録-1945年秋・1947年夏・2008年夏

惨禍から前へ 街の鼓動再び

 被爆の廃虚から復興へと歩みだす広島を三百六十度で鮮明に収めたネガフィルムが見つかった。東京の写真家、菊池俊吉さん(一九一六―九〇年)が四七年夏、広島商工会議所の屋上から撮った二十五枚すべてをつなぎ、紹介する。この年の八月六日に第一回の平和記念式典は開かれる。広島市の東部復興事務所が開設され、人口は約二十一万人台まで回復する。未曾有の惨禍から立ち上がった市民のたゆまない営みが、ヒロシマをつくっていく「復興元年」ともいえる年だ。(編集委員・西本雅実)

 原爆ドームだけが残った猿楽町(中区大手町一丁目)に、益本嘉六さん(89)は中国大陸から復員間もない四六年三月に戻った。生家では伯父家族五人が爆死していた。

 テント暮らしから始め、市を窓口に売り出された材木を手に入れた。「くぎは掘り出して焼き直し、電気は焼け残りの電柱からがいしを取り出して引っ張った。風呂はドラム缶」の住まいを建てる。パノラマ写真には、再建途上の「益本建具店」がドーム東側から延びる猿楽町筋の南二軒目に見える。

 旧猿楽町と細工町の通りが交差する場所で今もたばこ販売店を営む伊勢栄一さん(71)は、四七年四月に母との家族七人で広島デルタ北部の疎開先から戻った。

 「母が益本さんから早く帰れとせかされたのはいいが、配給物資を疎開先で受け取っては運ぶ生活でした」という。父や兄らを原爆で失っていた。一家全滅が珍しくなかった爆心地一帯では、「無断で土地を拝借する入植者がいた」と益本さん。ヒロシマの「裏面史」であり、人の心をも原爆はむしばんだ。

 今は西区に住む森冨茂雄さん(79)が、兄と親の代からの寝具店を細工町筋と本通りの角に再開したのも写っている。「夜は広島駅(爆心地の北東一・九キロ)からの場内放送が聞こえてきて、よけい寂しくなった」。動員先で被爆した「あの日」、火の手を突いて自宅へ戻ったが父と弟ら家族五人を奪われた。

 一発の原子爆弾により、どれだけの人間が亡くなったのか。国が全体像の究明を怠り死者数は今もはっきりしない。広島市が七六年に国連へ提出した推計値では、四五年末までの死者は「十四万プラスマイナス一万人」を数える。生存者はそれからも被爆の後障害に苦しむ。

 建物の被害は市の四六年調査によると、約七万六千三百戸のうち67%の約五万千七百戸が全壊全焼した。半壊や大破を含めれば市のほぼ全域に及んだ。

 広島の復興は、人が街ごと消し去られた廃虚の中から起こったといえる。

 被爆の翌四六年九月、「越冬住宅」とも呼ばれた市営の簡易住宅が、基町軍用地跡に完成する。政府の住宅営団による建設や、住宅セットの売り出しも続いた。さらに基町には四七年一月、市復興局の東部復興事務所が開設される(広島県の広島復興事務所は四六年二月に設置)。八月には土地区画整理事業の第一歩となる東部地区約十万坪の換地計画が発表される。

 復興への鼓動がようやく高まるなか、第一回の平和記念式典は、原爆投下の目標となった相生橋につながる中島・慈仙寺鼻に建てられた平和塔で営まれる。

 被爆者であり初代公選市長に就いた浜井信三さん(当時四十二歳)は、「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」と、原爆が人類絶滅の兵器であることを平和宣言で訴えた。都市の復興とともに今日に続くヒロシマの建設が始まったのだ。

(2008年8月5日朝刊掲載)

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