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社説・コラム

『想』 田辺雅章(たなべ・まさあき) 原爆が消した能どころ

 筆者は、のちに爆心地となる広島市の旧猿楽(さるがく)町に生まれ、産業奨励館(現原爆ドーム)の東隣の屋敷で育った。離れ座敷に板張りがあり、能楽の仕舞や鼓の稽古のためと聞いた。猿楽町は能と深い関わりがあり、芸州広島が城下町として開府して以来、能楽師をはじめ、囃子方(はやしかた)が住んでいた。隣にある細工町では能の衣装や楽器の修復を手掛け、職能町として存在した。

 藩主は毛利、福島、浅野氏へと代わったが、能ゆかりの町として受け継がれ、地名や川、橋の名称などに由緒がみられる。名曲「高砂」から命名された相生橋。〝四海波静かにて、国も治まる時津風。相生の松こそめでたかりけり〟。町名では羽衣町、松原町、霞町、愛宕町、住吉町、東雲町など。猿候川、萬代橋、御幸橋、常盤橋…。

 伝統は受け継がれ、被爆の直前まで街角から謡曲や囃子の稽古の音声が日常的に聞こえていた。戦時中ながら、のどかな風情を鮮明に覚えている。被爆と戦後75年を経て、広島市民の何人が知っているだろう。ヒロシマは国際平和文化都市を目指している。国際平和はともかく、文化については希薄と言わざるを得ない。原爆は地域の伝統文化さえも破壊、消滅させた。

 広島の地域特性、暮らしとともに築かれた伝統文化、それらを実体験として知る人々が健在なうちに再生しておかないと、永久に消滅する。平和と文化は人類共通の願いでもある。今こそ世界に発信しないと間に合わない。切なる思いから「爆心地鎮魂薪能」を考えついた。

 原爆ドームを背景に、晩秋の夕暮れ時、かがり火をたいて慰霊鎮魂薪能を上演する。場所も考慮して、無観客、インターネット・ライブ配信により、ヒロシマの別の一面を世界中に届ける。原爆がもたらした忌まわしい禍根を改めて思い起こす。75年の時空を超えて、潤いのある地域文化を蘇生させたい。

 浅野藩主のお家流の喜多流により、名人級の能楽師が原爆犠牲者への慰霊、土地への鎮魂を込めて「高砂」「羽衣」を上演する。(爆心地復元プロジェクト代表)

(2021年3月12日中国新聞セレクト掲載)

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