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社説・コラム

『想』 根尾洋子(ねお・ようこ) 祈り、三つの灯(あか)り

 エノラゲイの機長逝きしもあの閃光(せんこう)わが8歳の記憶は消えず

 75年前の8月6日午前8時15分、原子爆弾が広島へ投下された。あの朝B29を2回見た。7時過ぎには東の空を北へ飛び警報が解除された。8時過ぎ、学校代わりの寺へ勉強に行く途中で西へ向かうB29の大きな機影が…。その瞬間だった。閃光、そして顔が焼けるほどの熱さ、鼓膜が破れるほどの炸裂(さくれつ)音。まさに「ピカ・ドン」だった。一目散に帰ると玄関のガラスは砕け天井の一部が落ちて、一面砂ぼこりだった。爆心地から約5キロでこのすさまじさであった。

 午後、顔が分からないほど黒く腫れ上がった女性や皮膚が垂れ下がった男性らが家の前を通り過ぎた。子供心に感じた怖さと痛ましさ。夜になると市街地は真っ赤に染まった。学校では被爆者が次々と亡くなり、校庭に穴が掘られては火葬された。

 戦争は二度と起こしてはならない。「核は悪」である。そのような思いを胸に戦後、各地を訪れては人々と交流した。

 キノコ雲焦土の広島展示され笑顔のスタッフと心の交流(ドイツ・ポツダムで)

 夕茜(あかね)映ゆる慰霊碑に祈り込め“平和の灯(ともしび)”とドームを見つつ(広島で)

 だが、戦後も惨禍は続いた。

 大地揺れ国際都市神戸の破壊強し原爆投下と重なりあうも

 1995(平成7)年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生した。数日後、水を数本背に神戸へ向かうと、街全体でビルが倒壊し家は潰(つぶ)れてすさまじい心痛の光景であった。今年神戸を訪れ、あの〝希望の灯(あか)り〟の前で祈りを捧(ささ)げた。

 町々を津波のみ込む牙のごと破壊力つよしマグニチュド9

 2011(同23)年3月11日には東日本大震災が起きた。4年後に訪れると、陸前高田市の丘で〝希望・復興の灯り〟が海を見下していた。岐阜県からは淡墨桜の苗も贈られる予定だ。

 平和・希望・復興の三つの灯の前で祈りを捧げた私は今、三つの灯りが五輪のトーチの光と一つになり、世界に恒久平和の花を咲かせるよう願っている。(歌人・書家=大阪府高槻市)

(2020年6月25日中国新聞セレクト掲載)

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