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連載・特集

四国五郎さん表紙絵 被服支廠の雑誌「まこと」

 はつかいち美術ギャラリー(廿日市市)で開催されている反戦画家、四国五郎さん(写真・2014年に89歳で死去)の回顧展で、旧広島陸軍被服支廠(ししょう)(広島市南区)が戦時中に発行した廠内誌「まこと」3冊が初公開されている。17歳ごろに四国さんが描いた表紙絵は、戦争賛美と戦意高揚にあふれる。軍国青年だったことへの反省と悔い―。戦後の画業の原点となった。広島市公文書館と原爆資料館によると、冊子の現存はほかに確認されておらず、被爆前の被服支廠の貴重な記録でもある。(桑島美帆)

軍国青年の高揚 色濃く

戦後猛省 反戦画の原点に

 被服支廠に勤める職員がモデルだろうか。国への忠誠を誓うように右手を上げる男女が並ぶ。水彩で描かれたと思われる「まこと 第四十七号」の表紙だ。太平洋戦争が開戦する約半年前の1941年6月発行とみられる。

 続く9月の「第四十八号」は、日の丸を掲げた戦車と母子が表紙を飾る。戦後の作品の代名詞ともいえる、母子像との違いに驚かされる。42年1月発行の「第四十九号」はヤマトタケルノミコトらしい日本神話の人物が描かれている。

 3冊は4年ほど前、広島市内に残る四国さんのアトリエで見つかった。はつかいち美術ギャラリーの卜部彰子学芸員は「緻密かつ丁寧に描かれ、絵を描く喜びに満ちた青年だったことが伝わってくる。戦意高揚の題材に、迷いはなかったのだろう」と分析する。

 四国さんは、家計を支えるため14歳だった39年から約5年間、被服支廠で働いた。長男の光さん(65)=大阪府吹田市=によると、軍靴の製造ラインに配置されたが過酷な労働に耐え切れず、上官に絵の才能をアピール。廠内のポスターなどを担当し、「まこと」の作成に加わるようになった。

 表紙に加えて、「被服廠趣味の展覧会」や「工場部板テニス大会優勝戦記」の挿絵、スパイを撃退するマンガなども描いた。一部に「工場部事務班 四國五郎」とサインがある。「徹頭徹尾、軍事教育に染まり、当時としては極めて平均的な若者だった。陸軍の中心でもある被服支廠で、さらに軍事一色になったはずだ」と光さん。

 職場では「敵愾心(てきがいしん)奮起と称して」ルーズベルト米大統領やチャーチル英首相の踏み絵なども描いたと四国さんは記している。ただ、光さんによると「まこと」の3冊以外に軍国主義的な作品は残っていない。

 そんな四国さんを変えたのが、戦争体験だった。44年に徴兵されると満州(現中国東北部)に送られ、ソ連との国境線で、壮絶な戦闘を経験した。極寒のシベリア抑留を経て48年11月、約4年ぶりに帰国。原爆による古里の壊滅と、18歳だった弟直登さんの死を知る。

 四国さんの自叙伝的な日記「わが青春の記録」には「“畜生ッ!” 腹の中の臓物の全部が ぐらぐらと からみ合って ねぢれ合い なにもかも興奮が一所くたになって 何でも握っているものをヘシ折ってしまいたい怒りが カッと湧き上る」と記す。

 その怒りをわが身から絞り出すように、反戦運動と創作活動を続けた。「物事の本質を理解できなかった戦中の私自身への反省です」―。生前、そう書き残している。

被爆前 職員の日常記す

標語や投稿・娯楽活動も

 「まこと」については、四国さんが「まこと と題する御用新聞を出していたがこれを三十頁(ページ)あまりの雑誌にすることになり…」と記録しているものの、発刊時期や発行期間はよく分かっていない。

 ページをめくると、「軍都広島」を支えた施設の日常が伝わってくる。「機密こぼすな汗こぼせ」「ウンと働きウンと防諜(ぼうちょう)」など勤務態度を律する標語や詩が散見される。職員の娯楽雑誌という側面もあったようだ。随筆や詩、短歌など幅広いジャンルの投稿作品が掲載されている。

 「第四十九号」は計32ページ。巻末の「戦地だより」は「早速拝読致し内容の充実に感服しました。暇を利用しては一言一句、残さず味はつて居ります」など、中国や台湾からの投稿を掲載。「前線と銃後を固く結ぶ一助に」と、被服支廠から物資とともに冊子が各地に郵送されていたという。

 現在の南区出汐に倉庫群が建設されたのは、1913年8月。鉄筋2階建てのれんが倉庫や木造の事務所などが並び、軍服や靴、毛皮などを製造した。小学校や女学校を卒業したばかりの少女たちも「時局産業振興隊」として働いた。「被服廠の初印象」コーナーには「工場内の空気にふれ、人間の力の偉大さを知りました」といった感想が並ぶ。

 41年に15歳で入廠し、廠内で被爆するまで4年間、補給部で働いた近藤(旧姓田坂)アサエさん(95)=東区=は「普段はピリピリしていたが、休憩時間には板をしゃもじ型に切ったラケットでテニスをした。演芸会も楽しかった」と懐かしむ。「まこと」には、工場部の男子工員で構成する「銀星バンド」や、装工一班で結成した芸人トリオ「アキレタ・ブラザース」の活動報告(いずれも第四十七号)が載っている。

 一方で廠内の保育所に関し、戦争で父親のいない子が増えていることや「次の國(くに)を背負って立つ小國民(しょうこくみん)の養成を實(じつ)に樂(たの)しく自信を持って従事してゐ(い)る」ことなどが書かれている。

 年を追うごとに戦況は悪化の一途をたどり、扱う物資も少なくなっていった。45年8月6日、爆心地から約2・7キロの被服支廠は爆風による倒壊を免れ、直後から臨時救護所となった。原爆詩人・峠三吉の「倉庫の記録」にも、凄惨(せいさん)な光景が描かれた。

 それから76年。広島大の学生寮や運輸会社の倉庫などに使われた後、4棟が残る。今、被爆建物の保存、活用を巡る議論のさなかにある。

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 回顧展は17日まで。無料。

(2021年10月4日朝刊掲載)

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