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社説・コラム

『想』 金田晉(かなた・すすむ) 地域と美学

 美学を志して60年、人生で言えば還暦を迎えた。当初は、ドイツ近現代美学、特に「現象学的美学」に専念していた。傍らからは観念論的だと評されることもあったが、本人はどこまでも具体に徹する方法だと確信していた。広島大学に最初の芸術学担当専任講師として赴任し総合科学部の創設に参加して、比較文化研究を実践できたことはありがたかった。そこは、物や人の生きた体温を確かめながら世界に発信できる場であった。

 地域、特に「広島」は僕の美学のアトリエであった。広大に赴任した1970年前後から、広島市には美術館が建ちはじめていた。その美術館の構想や運営、学会の創設、書誌の刊行にも携わった。中でも思い出に残るのは、院生諸君らに手伝ってもらいながら、7年間かけて「戦後広島の美術年譜」を作成したことであった(美術年鑑「美術ひろしま」収載)。

 「伝わる」と言うしかなかったが、「年譜」は、原爆投下2カ月後の10月、焼け残った自作をもち寄り、生き残った画家たちが展覧会を開いた記事から始めた。戦後の広島美術は、その心意気から始まる、と感動した。この年譜は1982年までの37年間、広島市とその郊外で行われた展覧会などをほとんど網羅した。月日を入れ、可能な限り出品作家の名を拾い、作品名を記載した。

 戦時中既に名をはせていた作家たちの画室を何度も訪ねた。かれらの師でもあり仲間であった靉光(あいみつ)や山路商や南薫造などのことも語られた。広島の作家たちを支援しつづけた、画廊の活動も加えることができた。戦後の、若い美術家も登場させることができた。

 地域へのまなざしを持ち続けてきた経験をもとに、東日本大震災後の2012年、仙台で開いた芸術学関連学会連合主催のシンポジウム「地・人・芸術」のコーディネーター役と基調講演を務めた。震災の東北と被爆の広島の熱い連帯を語った。人々が被災の地で握り合った手と身体の触の力の大切さを思った。(東亜大特任教授、広島大名誉教授)

(2019年11月13日朝刊掲載)

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