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社説・コラム

『想』 岡山典弘(おかやま・のりひろ) 江田島・原爆・起業

 筬島一治(おさじま・かずはる)は、昭和から平成にかけて活躍した異色の起業家である。昭和2(1927)年に下関で生まれた。

 旧制門司中(現北九州市)を卒業後、江田島の旧海軍兵学校、熊本の旧制五高、福岡の九州大で学び、技術者の道を歩んだ。

 海軍兵学校では、シーマンシップを徹底的にたたき込まれる。同期生には後に阪急グループを率いた小林公平氏や、細胞融合現象を発見した岡田善雄氏、垂直磁気記録方式を提唱した岩崎俊一氏などがいた。

 五高では弊衣破帽の青春を謳歌(おうか)する。同期生には三菱重工の社長、会長を歴任した相川賢太郎氏や、「キヤノン中興の祖」と呼ばれた賀来龍三郎氏などがいた。九州大では農芸化学を専攻して、奥田譲学長や富山哲夫教授の薫陶を受けた。

 輝かしい学生生活を送った一治であるが、社会人となってからは不遇の時期が続いた。メーカー十数社に勤めるが、いずれも長続きしなかった。革新的な技術開発を行うものの、特許権の帰属を巡って勤務先の企業と対立して辞めるなど、会社勤めには向かなかった。

 脚光を浴びるのは昭和51年、49歳にして世界初となるペプチド(アミノ酸化合物)の工業化に成功してからである。一治は遅咲きの起業家であった。

 一治の雌伏(しふく)期間、彼を支えたのは、妻の知子であった。五高生の一治は、清楚(せいそ)な知子に魅了された。彼女は、広島の女子高等師範学校に通っていた。昭和20年8月6日、校庭の朝礼を終えて、知子が校舎に入った刹那、原爆がさく裂した。

 知子は幽鬼のような姿で、両親の疎開先・日田(大分県)にたどり着く。急を聞いて一治が駆け付けた。全身を包帯に巻かれた知子を見て一治は結婚を決意した。阿川弘之「春の城」の智恵子、井伏鱒二「黒い雨」の矢須子。彼女たちは、願いがかなわぬまま逝く。苦労多き半生ではあったが、思いのかなった知子は幸せだったといえよう。

 愛媛県の調味料メーカー、仙味エキスを創設した一治の評伝を執筆中である。刊行は来春となる。(作家・文芸評論家)

(2019年8月25日中国新聞セレクト掲載)

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