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社説・コラム

『想』 広瀬隆慶(ひろせ・りゅうけい) 安楽庵策伝の茶の湯

 私どもの寺の開祖は、「醒睡笑(せいすいしょう)」を書いて「落語の祖」と呼ばれている安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)です。策伝は飛騨高山城主、金森長近の弟で、京都の永観堂で修行を積み、山陽地方での布教時に7カ寺を建立。その後、京都誓願寺法主(ほっす)となります。隠居後は塔頭竹林院の安楽庵で茶の湯に親しみます。そこから「安楽庵」と号したのです。

 戦前、今の広島市中区の平和記念公園にあった寺が原爆で焼失し、現在の西区三滝本町に移った時、先代の住職が「山陽路一の大門」「市民に親しまれた池」「策伝の茶室」の復元にこだわったのを思い出します。

 復元された茶室は「策伝庵」と名付けられ、古田織部門下の雰囲気を漂わせております。窓の多い「安楽庵八窓亭」という造りも特徴になっています。庭の滝近くには織部灯籠を置き、茶庭には策伝の好きだった椿(つばき)を植えています。

 私は、この策伝庵が縁となり、同じ織部門下の上田宗箇(そうこ)流の茶道を始めることになりました。平成の初めに寺の創建400年を迎え、大法要とともに策伝ゆかりの奉納落語を催しました。それが好評で、翌年から策伝を顕彰する「策伝会(え)」を始めました。一般公開し、追善法要後、奉納落語を真打ちの落語家に務めていただいたのです。

 数年後、上田宗箇流お家元より、茶会のご提案をいただき、お弟子さんたちによる茶会も加わりました。茶道具は、復元した「安楽庵釜」「安楽庵裂(ぎれ)」を使うことにしました。会を重ねるたびに道具が増え、琵琶床には人形作家に作ってもらった「安楽庵策伝像」も鎮座するようになりました。策伝が椿を愛したことから、茶会の菓子も毎年、椿をかたどっています。こうしたことから、策伝の茶道を感じてもらっています。

 策伝は70歳で隠居後、松花堂昭乗、小堀遠州、松永貞徳などの文化人と交友し、19年間、茶の湯に親しむ日々を送ったそうです。私も茶道を始めて30年あまり、策伝と同じ世代になりました。少しでも策伝に近づくよう精進したいと思います。(広島誓願寺住職)

(2019年8月21日中国新聞セレクト掲載)

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