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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 もともと明治三十一年に資本金一万円で、中央勧商場ができたものの大正初期にはすっかりさびれて俗にさわ園という小池を中心にした築山が残されていたのが、筆者たちのこのうえもない遊び場所で、現在の稲荷さんのある前方あたりがそれである。

 そしてこの小池が埋められて新天地タンジョウ前の夏に、映画の仮小屋ができて納涼興行がはじめられ、ハン舟寺墓地際の空地では入場料二銭の露天浪曲劇場も出現した、同時に金魚釣りとか鯉(こい)釣り、福助さんの太鼓叩(たた)きとかセルロイド製の玉揚げという、本水使用のおもちゃが売り出されたり、その水の落ちるところに赤、青、白の水菓子がならべられ、ひろしま夏まつりのさきがけ、三川町のとうか(稲荷)さんの夜以来この新天地界わいは、すべてに夏のよそおいを新(あらた)にしてハツラツたる動きを見せたのは、そのかみの勧商場時代以来のものであった。

 新天地タンジョウ前から、この界わいで人気のあったのは艶歌師(えんかし)の秋月四郎である。彼は、この盛り場が計画されて地区整理がはじめられたころから、現在の平田屋町キリン食堂の前や新天地の広場、時には流川筋へと移動しながらバイオリン片手にあまり上手でもない艶歌を披露した。

 しかし当時としては、この情歌が若い人達(たち)、特に女性にアッピイㇽして、その紅涙をシボったのであるから、およそどれだけの魅力があったかがうかがえる。

 映画小唄で有名な「枯れすすき」とか「籠の鳥」が流行したはるか以前のことで、近松門左衛門つくるところの「曽根崎心中」の名文章がウケたころであるから、昔話でもムカシバナシの部類で、のど自慢などとは夢にも思わなかった大時代のことである。

 秋月四郎そのものは二十貫以上もある肥大漢で、立派なコールマンひげもあり、いつも鳥打帽(とりうちぼう)をかぶった堂々たる壮士型の男であった、それに彼と行動をともにした妻君は美人のブルイで、いつもたのしそうに艶歌をカナデた。そして彼は、この艶歌のほかにシバシバ世相を論じて行人の足を留めたのであるが、実は、歌そのものよりもこの方が面白かった。

 新天地開場とともに秋月四郎はそのままこの土地に定住した。間もなく彼の名前入りのハンテンを着て歩く若い男もあって、秋月一家を構えてこの界わいの一勢力をなした程である。そのころ、艶歌は若い書生達によって相変(かわ)らず新天地広場で公開されたが、秋月先生は集(あつま)りのよい時を狙って彼独特の弁舌で世相をいろいろと論じまくった。

 平田屋町キリン食堂 1938年開業のキリンビヤホール。被爆したが倒壊は免れ、終戦直後に営業再開した。現在の広島パルコ本館(広島市中区)の場所で、外壁の一部が保存されている

 この連載は昭和24(1949)年9月から12月にかけて「夕刊ひろしま」に掲載したものです。

(2015年5月10日中国新聞セレクト掲載)

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