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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   時には、政治問題にまで触れて秋月四郎が艶歌師(えんかし)以外に、政治面に興味を持っている男であることを思わすようになった。そして、話に油が乗って、カンジンの艶歌はどうでもヨイというような時もあって、彼は一風変(かわ)った男であるの印象を深めはじめた。

 果(はた)せるかな彼は、後日、広島市政にも関与したようで、更にのち帝国議会のボウチョウ席から「議会は動物園ではないぞ」とバン声を張りあげて、不甲斐(ふがい)なき代議士どもを一喝して、熱血漢振(ぶ)りをウタワれたが、昭和四年八月六日、四十四歳で新天地に病没した。

 同じ頃、高島易断の武田八州も新天地開場以来、この土地に定着して一勢力を占め、なかなかの美男で、秋月同様、市政方面にまで進出していたが、昭和九年以後のことは不明である。

 さて昔からひろしま名物であった平田屋町角の「虎屋まんじゅう」は、ムカシのままに大きな虎の張ボテが飾られ、この店が煙草(たばこ)を商ったりする関係で、張ボテを奥に引込(ひっこ)めたため、よほど注意して見ないと虎公にはお目にかかれなかった。しかし、陳列台には白、黄のまんじゅうに、茶色の焼(やき)印が鮮やかに刻まれて並べられた。直径五寸以上で、八分近くの厚味のあったこの虎屋まんじゅうは、西国筋でも有名なものの一つであった。(西国筋と言えばヒロシマ地方だけではありませんぞ)

 そして、その右ドナリが救世軍の支部で若い人達(たち)がこの街頭で太鼓やタンバリンを叩き、キリスト精神の伝道に懸命であった。そのまた右どなりが本屋の広文館で、ピカドンで亡くなった丸岡才吉氏が、その頃二十二、三歳であったかあの温和なまなざしで独り店先に座っていた姿が思い出される。

 虎屋まんじゅうの前が、油屋中忠で、これも有名なベッピンの大看板が新装されて間もなかった頃――これが丁度(ちょうど)、新天地タンジョウの数年前で、現在のキリン食堂のところには、これも広島名産柿ようかんの本舗で湯浅という菓子屋があったが、後に新川場町の横小路に移転したようである。

 油屋から、ものの十メートルも西に行ったところが、広島城内堀の水を御幸橋近くに流し込むクリークで、国道北側に交番所があって、そのトナリが永井紙店、その前方、橋になった一角が広島県や広島市そして裁判所などの告示が貼られる掲示場であったことを知る人も少(すくな)くないであろう。このいかにも明治時代のニオイのするけいじばん―それは逃げられないようにこしらえられた金あみばりの大時代モノで、新天地開場までは残っていたはずである。

 新川場町 現在の広島市中区の並木通りから南方のじぞう通りへと延びていた平田屋川の西側縦筋。城下の船着き場の町として開かれた。

(2015年5月17日中国新聞セレクト掲載)

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