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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (四)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   大正十年の初夏、まず油屋がブチ切られて、新天地広場への道路ができた。堀川町側では、その出口にあった永井提灯(ちょうちん)屋が雑貨店となって、油屋の軒並みに店を張れば提灯屋はそののれんが弟子にゆずられて、昔からある荒木楽器店の向側あたりに移動した。

 筆者の知っている新天地生え抜きの人は、油屋中忠の人達(たち)と、この永井雑貨店の主人だけのように記憶している。

 移動した紅桃花稲荷のめんどうをみていた桑原老人も、開場後数年で消息不明となり、八千代座主の野田老人も姿を見せなかった。

 開場当時、この界隈(かいわい)の食堂といえば、西入口(いりぐち)のつきあたりがカフェータイガー、活動写真(その頃は、まだ、映画とはいわなかった)の帝国館―泰平館時代もあった―のトナリが二階建総ガラスの新天地食堂、東出口の角が二葉食堂で、大正年間の女給さんは、白いエプロンを純情型に結び、ビールの栓抜(せんぬき)をブラ下げていたのが典型的スタイルであった。いかにも初々しい白エプロン姿は、新天地開場のシンボルであったように印象づけられている。

 そして、この間が十年経過した昭和四、五年頃は、広津和郎ものする「女給」ばやりで、この新天地にもケンランたる和洋装の女給姿が見られ、これを麗人と称してカフェー華やかなりし時代を現出したが、当時、彼女達から専らうけたのは株屋サン達であったようである。

 新天地開場十年後のカフェー分布図では堀川町の「金髪バー」、中の棚には「サロン春」新天地食堂は火災にかかってそのトナリが「第一サロン」、八丁堀には「ニューヨーク」同じ電車通りの幟町には「黒猫」、東遊郭に近い薬研堀には「魔天楼」などといえる酒場が現れて、これら酒場から次の酒場へ円タクで移動して行くというような豪華風景が昭和八、九年頃を最盛期として、ネオン・サインとともに華々しくカガヤイたのである。

 昔流の小料理屋では新川場橋近く、新天地開設当時からの「源蔵庵」が三階建の「よか楼」となれば、昭和初期に本川橋畔からの鉄橋楼が、堀川町金座街角に現れて、これも三階建、その向(むか)いの書店広文館も三階建の洋館に改装されて、ひろしま一流の本屋に飛躍したのも同じ昭和のはじめ頃のことである。

 カフェー 明治末ごろから昭和初期にかけて、女性店員が接客をしながら主に洋酒類を提供した飲食店。

(2015年5月24日中国新聞セレクト掲載)

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