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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (五)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   新川場筋にざるそば、天ぷらそばをウマク食べさした「秋月」、堀川町筋の「すしホール」「黄金すし」の味も、忘れられない。

 おでん屋がハンランしたのは、同じ昭和五、六年頃で、これとてもこの盛り場出現後、凡(およ)そ十年間をケミしている。

 堀川町出口の「五三十里」「づぶ六」は、もっとも人気のあった店であり、十二時以後は、酒場帰りの彼女彼氏達(たち)で、三時近くまでにぎわったなぞ、今昔の感にうたれるものがある。

 それまでの新天地に継ぎ足したような、東新天地が薬研堀から流川筋へ貫通してからは、この新通りを中心に、八丁堀、薬研堀、東遊郭一円のおでん屋の数は、五十数軒もあったようで、東新天地の「げん直し」という店では、例のオカッパ藤田嗣治画伯が、ミス・ヒロシマを発見して評判となった記録がある。このミス・ヒロシマは、この店の娘さんで、新天座での素人歌舞伎にも出演した麗人であったが、美人薄命というか、昭和十年頃ポックリ亡くなったような話である。

 おでん屋が、店それぞれの広告マッチを出して宣伝した割合にはその名前が思い出されないなぞ、あまりに店の数が多かったセイであるかも知れない。

 現代ばやりの喫茶店となると、東部地方で最初の店というより、ヒロシマの草分けとなった喫茶店らしいものの出現は、矢張(やは)り新天地開場間もなく、流川筋に開店された名井屋である。

 主人が、アメリカ帰りであるだけに、総(すべ)ての設備がいわゆるアメリカン・スタイルで、店のうちに飾られた洋画は、この店の若き人が、フランスから帰ったばかりの作品を並べて、広島美術界への一投石を試みた結果になった。

 この店は冬のさなかでも、アイスクリームがあるというのが評判で、後に徳永氏が東新天地入口(いりぐち)に、名井屋支店を出し、さらにのち昭和十五年ごろには金座街に、階下喫茶、階上食堂の名井屋本店が現れた。

 喫茶店がサカンになったのも、カフェー全盛と時を同じくした昭和六、七年頃からで、堀川町筋のアカデミィ、流川角の梅園、八丁堀中国新聞社前のセルパン、本通筋の桃源、八丁堀角の明治製菓、昭和十六、七年頃には金座街の森永製菓、東新天地のトモ、その他胡町方面には音楽喫茶と称する、レコード音楽を聴かなければ、お茶の呑(の)めない連中のタムロしていた店などがあった。

 藤田嗣治(ふじた・つぐはる) 1886年東京生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒業後、フランスに渡り、パリで独自の画風が人気を博した。戦前、親交のある広島市の医師宅を訪ねたことも。1949年に離日し、フランス国籍を取得。68年に81歳で死去。

(2015年5月31日中国新聞セレクト掲載)

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