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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (六)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   八丁堀の昔の東洋座前にあった「村雨」というしるこ店は、大正七、八年頃の創業とかで、その頃中学生行きつけの甘いもの屋で、後年大手町七丁目に出来た大寺屋とともに、忘れられないぜんざい屋であった。

 これらの喫茶店のうちで、現存のものは、アカデミィが同じ堀川町に、お茶の店「柳屋」として復活したのと、胡町近くに現れた「トモ」復興新天地の「五三十里」「づぶ六」八丁堀近くの「めざまし」などが、昔のままの姿を見せて、ピカドン生き残りの人達(たち)に、はるかなる感傷を呼び起こさしている。

 筆者の住んでいた新天座裏の弁護士通りは、盛り場の強気に押されて、料理屋やカフェー通りになった。

 はりまや町広島ホテルの一角に東京のお相撲さん、十両まで取りすすんだ野球のウマイ阿里山が、阿里山倶楽部を設けたのと好一対に、小学校時代の仲間、荒神町出身の大阪のお相撲さん越ケ岳が、幕内から抜けて料理屋を出していたのもこの通りである。

 そして、この界隈(かいわい)の新天地生え抜きの住人としては、後に文部次官にもなり、広島市長にもなった横山金太郎氏がある。

 同氏の二度目の邸宅は、同じ通りでも流川から堀川町に移っていた。そして、そのころ名物男の杉原鉄城が、自称未来の総理大臣として、サッソウたる白がすりの着物に、白チリメンの太帯を巻き、白せん無帽の姿で、しばしば横山邸の表玄関に現れていたが、弁護士通りとしては、最後の木版画的風景であった。

 広島高師の教授で、地方音楽会にコウケンした長橋熊次郎氏の宅も、新川場町のドブを背にした新天地付近にあって、八重子夫人との散歩姿を同じ界隈に見かけたもので、筆者とは、後年、特に放送のことでいろいろとつながりが出来た。

 八重子夫人も、ピカドンで亡くなられ、今更ながら感ガイの深いものがある。この八重子夫人の愛(まな)弟子の一人である中野春子さんは、筆者の住宅二軒目先の住人で、広島女学院の音楽教師から、杉村春子として築地小劇場同人となり、更に文学座同人として、現在第一級の新劇人であるが、同女史も自宅で新天座の新派人や剣劇役者の台詞(せりふ)を聞いていた、新天地生え抜きの界隈人である。

 堀川町の表通りでは「みどり薬局」の山下憲吾氏というより、ヒロシマ運動界では、誰知らぬ者もない野球の山下氏も、新天地はじまって以来の人であるが、ピカ後、遂(つい)にその姿も見られなくなった。

 古くは、青い鳥歌劇団の大津賀八郎、園春枝、後にこの歌劇団から新劇に転向した丸山定夫、若宮美子、水品春樹、無名時代の横山エンタツ、永田キング、玉松一郎、ミス・ワカナ。新天座の第二新国劇の立回り失敗が動機で、映画界に入った室町次郎こと、大河内伝次郎なども、この盛り場新天地には深いゆかりのある人達である。

 杉村春子(すぎむら・はるこ) 広島市にあった旧山中高女卒。1927年、築地小劇場に研究生として入団。文学座創設に加わった。「女の一生」は947回演じ、「華岡青洲の妻」などでも名演技を見せた。文化功労者。97年に91歳で死去。

(2015年6月7日中国新聞セレクト掲載)

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