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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (七)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   新天地界隈(かいわい)のあれこれを書き綴(つづ)ってみると、これという完全なカタチは、なに一つないなかに新天地稲荷(いなり)だけは、明治三十一年十一月に刻まれた「正一位紅桃花稲荷大明神」の石柱と、筆者が子供時代からみかけている稲荷社後方の洞穴(ほらあな)が、そのまま残っているのは不思議である。

 この社殿の台石には、永井林太郎と刻まれているし、記念寄付の石標は「大正十年九月七日建之」として当時の帝キネの山川吉太郎の名も見られるが、これらが新天地タンジヨウを物語る唯一の記念資料である。

 そして、青い鳥歌劇団のたまり場として知られた汁粉屋、吉野庵奉納の石碑には「大正十年八月吉日建之」とあり、藤井イト、藤井しず子と書いてあるなかに、英文字の「S」がどうしたはずみでか刻まれていて、何かセンサクして然(しか)るべき暗示を与えているようである。

 石鳥居には「昭和二年十月建之新天地住民」とあって、焼けた二本の銀杏(いちょう)は、稲荷社がそのかみ八千代座のとなりにあった時代に植えられた昔のもので明治、大正、昭和とおよそ四十年近くもこの界隈を眺め、今また昨年以来の旧新天地復興振(ぶ)りを見守っているようである。

 お化け銀杏というのがあるが、この二本の焼木もその神通力を現して、そのうち若芽が出て生き返るのではないかと思われる程の、なんとも言えぬあやしい力がうかがえるようである。

 一昨年の寒さでは、心ない人達(たち)の手で伐り倒されはしないかと心配していたが、さすがにこの稲荷が新天地タンジョウ当時、八千代座の娘さんにのりうつって無断移転に抗議したレイケンを知られてか、今日までいちょうが無事であるのはなによりである。

 私は三十余年間もこの紅桃花稲荷のいきさつを知っているだけに、リクツなしにこの小社だけは土地の者として大切にしなくてはならないと信じている。

 昨年の新天地開眼にも、ていちょうな扱いを受けているこの稲荷をみてこの分なら必ずもとの新天地に復興するだろうと思った。

 前にも書いたように、新天地界隈で殆(ほと)んどのものの形態を失ったなかに、石柱と銀杏の焼け残りだけではあるが、昔のままに残ったのはこの稲荷さんだけで、ピカのあの物凄(ものすご)い燃焼力――原子力にある程度、耐えた記念物ないし実験物体として、油屋中忠前の六本の新しい柳とともに新生する「ヒロシマ」の新名所ともなるべきであると思わされる。

(2015年6月14日中国新聞セレクト掲載)

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