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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (八)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 原子サバクから平和都市にころも替えするまで四ケ年――ひろしまの盛り場は、必(かな)らずしも昔の盛り場跡に再生しない。そこに、よその都市に比べて、戦災特異性といったものがうかがえる。昔の盛り場をそのままの土地に、よみがえらしたいのは、広島人の人情であるが、ひろしまの場合、そのニンジョウどうりには、なかなか運ばないようであり、そこにムカシの夢があるワケである。

 ところで、ここ半世紀以前のヒロシマとなると、明治二十年頃に印刻され(敢(あえ)て印刷と言わないのは、これが銅版刷であるからである)広島で発行された「広島名所図絵」と言ったような、黄表紙大福帳型の分厚(ぶあ)つの和本がある。もっぱら鎮台当時の商店の模様がコクメイに描かれている。その中でも、特に面白いのは、筆者のネラッている盛り場風景が、十数葉も組まれていることである。

 たとえば、木製橋時代の本川橋東詰のヒンパンな人の往来のなかで、二人の巡警がモロッコ外人部隊の兵隊のように、肩までタレさげた帽子の日覆いをなびかせて、一人の男を取調(とりしら)べている図である。その男は、土下座しているという封建時代そのままの姿で、これを取りかこんでいる群衆の数といえば、まさに盛り場気分を、かもし出している。この本川橋界ワイの牛めし屋らしい五階建、四階建の洋館などはまことにオモムキのあるもので原子サバクの昔には、かくも文明開化的なニオイがあったのかと、なつかしまれるものである。

 また、十日市町の新地座前風景では、尾上梅幸であったか、市川蝦十郎だったか、東京歌舞伎大名題の幟(のぼり)が立てられて、芝居茶屋らしいものもあって賑(にぎわ)っている様子や、特にひろしまのまつりでは、慈仙寺のネハンの図や、東寺町某寺の地ゴク極らくの大図のかかっている光景から、京橋川に宮島管弦祭の前奏図とも言われる、ケンランたる御供船が三艘も華々しく飾られて、橋上、水上ともに人の波で埋められた情景や現在では殆(ほと)んど見られない、屋上高くかかげられた「高提灯」など、この大福帳盛り場には捨てガタイ風情がみちみちていた。私はこの貴重な資料を焼いてしまったが、おそらく同種大福帳の殆んどは、八月六日にカイメツしたことと思う。しかし、先ごろ杉浦重剛翁座談記録なるものを読んでいると、同翁が病中の枕辺に、江戸名所や近江名山図絵などとともにこの「広島名所」図絵がいつも備えられていたというから、あるいはカイメツしない一冊のうちに、昔のひろしまの盛り場が、残されているかも知(し)れない。

 「広島名所図絵」 1883(明治16)年発行の和装袋とじ本。正式名は「広島諸商仕入買物案内記並ニ名所志ら遍」。商店や料理店が並ぶ広島の町並みを銅版画に刻み、戦前の姿が生き生きと描かれている。

(2015年6月21日中国新聞セレクト掲載)

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