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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (九)京口門付近砂絵師の話①

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   広島城の外堀が埋められたころのことである。この堀がどうして埋められたかは、とんだ徳川イエヤスのせんさくになって、それが冬の陣であったか夏の陣であったかは知らない。ともかくこの堀をそのまま残しておくことは、ただ徒(いたず)らにレンコンをはびこらすのみで、みそを包むための蓮(はす)の葉も、それ程多量に必要でなかった時代のことであるから、この堀を埋めて電車を走らせ、道路にして家を建てるという都市ケイカクで(その頃は、まだそんな言葉はなかったようである)はじめられたことと想像する。

 昔の白島線電車の終点近くから、泉邸角を右に曲(まが)った京口門一帯から、八丁堀を右に流れて相生橋までの外堀は相当の広さで、これが次から次へと川砂で埋められた。これは確かに明治四十三、四年頃のことで、大正元年十二月八日の電車開通を機会に、もと西練兵場を中心に、八丁堀から紙屋町、相生橋にかけて埋められた川砂の上でモロモロの見世物(みせもの)や商店が軒をならべ、広島での盛り場創生のレキシをつくった。

 白島の電車終点近くの民家に、幕末以来、夜ともなればやかんがブラさがったという「つづの木」の話は有名であるが、この「お化けつづの木」の妖気を含んだような人間が、同じ川砂原ッパの京口門近くに現れた。

 それは老砂絵師が、時に不気味な砂絵を地上に、描きはじめたからである。よその土地については知るよしもないが、広島ではこれが最後の砂絵師ではなかったかと思う。

 アプレゲールには、砂絵師といっても、蒔絵(まきえ)の職人くらいに想像されればよい方である。ところで同じ盛り場での絵描きといっても似顔絵描きのタグイとは全く違う。大衆文芸作家土師清二氏のよみものに「砂絵しばり」があるが、砂絵師は重要な登場人物であり、のちに映画化もされたが、砂絵師の生態は描きつくされていなかった。

 あの堀が埋められてからは、春の夕暮(ゆうぐれ)どき、それも三時から五時ごろにかけて、この砂地一帯にがまの油売り、大根、人参を面白おかしく料理出来る小型機械を売る屋台―お伊勢さん本場のかぐら、気合術屋など、その後神農会といわれた組合に参加した。これらの露天商人に混って、それこそ気味の悪い、オモムキの変(かわ)った砂絵師は、年のころ六十の坂を越した白髪で、その顔はいつも不機嫌らしく、しかも表情線がハッキリし眼光の鋭さはひとくせも、ふたくせもあるタグイの男であった。

 アプレゲール 「戦後」を意味するフランス語。第1次世界大戦後の同国などでの芸術活動を指す。日本では第2次大戦後の文学活動を指したが、その後、戦後世代の行動や考え方を表す言葉に転化した。

(2015年6月28日中国新聞セレクト掲載)

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