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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十)紙屋町付近気合じゅつ屋

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   大正四年の畜産共進会は(正しくは同年四月五日開場された)西練兵場と商品陳列所の二つの会場で、華々しく開催された。

 この二つの会場が結ばれる新埋立(うめたて)地の、紙屋町界ワイからやぐら下の相生橋一円にかけて、全国から集まったみやげもの店や、特産品即売店がならんで、新盛り場風景が描き出された。そのころ広島での盛り場は、中島の集散場(人が集まったり散ったりするから)横町にあったうなぎの寝床のように細くまがった二ケ所の勧工場(細工もの売店が多かった)堀川町の中央勧商場の四ケ所で、盛り場とはいっても、一つの活動写真館または定小屋を中心とした小間物店、玉ころがし屋、鉄砲打ち屋が並んでいた程度で、戦後のマーケット街のはるかなる前身と思えば間違いない。

 そして、これらの盛り場に殺到するのは、一年を通じてお正月やなにかの旗日くらいであったから、平素これら小間モノ街を、独りで歩けばカラコロと、はきものの反響がするさびしさであった。それが電車が開通する、電灯がつけられて、イルミネーションの美しいアーチがこしらえられる。ショウコン祭以上に連日、曲馬団、娘剣舞、猿芝居その他の見世物(みせもの)が軒を並べ、鷹の羽をぶっちがえた浅野長晟侯広島入城三百年祭の催しとともに賑わった。

 毎日、地方から小学生の修学旅行団や、ホウ破りで毛布にくるまったおっさん連中がヒロシマに繰り込んで来た。花火は終日打ち揚げられて、文字どおりの三百年サイ気分である。大手町の入口(いりぐち)あたりには、広島銘酒のセンデンに、つくりものの「ショウジョウ」が屋上高く飾られてあった。そしてこれらのみやげ店に混って包丁みがき、ジャガ芋料理万能を説く屋台、筆二十本を五十銭で売る店、数え唄のうまい石菓子屋、博多人形屋、土佐の本場から来た尾なが鳥のいる店、バナナのたたき売り屋、“水のことを英語でウォーターという”と見得を切る薬うりの老大学生、子供を引張(ひっぱ)り出して、さくらの数人が木刀で打ってかかるが「えいッ」の気合で、目玉松之助にニラミ返された捕手のように引っくり返る。その気合の本を売る居合ジュツ屋。

 その本の一節に曰く「相手に打ち勝とうとするときは、必ずタンデンに力を入れて、えいッと叫ぶなり」とあり、一つ二銭の稲荷さんのおみくじよりは、この本一部五銭だけに、ハッキリしていると、評判が良かったなど、ウソのような話である。

 浅野長晟(あさの・ながあきら) 浅野長政の次男で、江戸時代初期の大名。1619年、紀伊藩主から安芸広島に移封される。浅野家は幕末まで広島藩主を務めた。

(2015年7月12日中国新聞セレクト掲載)

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