×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十)紙屋町付近チクオン器屋②

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   この屋台の主人は、四十前後の関西ベンの男で、自分でもチョウシン器を耳に当てながら、右手に白扇を持って、時々「はいっ、しっかり」とか「えい、その調子っ」と、左の掌(てのひら)を叩(たた)いて気合(きあ)いをかける。これはこの主人がモッパラ自分でチクオンキの動きを、たのしんでいる行為ではあるが、見方によってはこの白扇の動きと気合いの面白さにひかれて、ツイ浪花ブシなるものを聞いてみようという気持(きもち)にさせられるのである。

 連日、私はこの軍カン型の屋台前に出かけて、無料公聴の白円筒をきいて「なんて間がいんでしょう」という唄も、覚えたような気がする。そして、十数日後、漸(ようや)くに二銭を出して、クモの浪花ブシなるものを聞いたが、今にして思えば、この機会を逃がさなかったことが、なにかよいケイケンをしたような気もする。

 この時、屋台店の主人が、聴診器を消毒して渡して呉れたが、恐らくはこのチクオンキがアメリカ製であった性格を、そのまま伝えていたと思われる。

 その後、ビリケン印や白犬が耳かたむけてシアン中のレコード広告を見るにつけ、この盛り場での円筒式装置が面白く思い出される。エジソン翁の発明品、ひろしまに現(あらわ)るともいうべきこのチクオンキ界の珍記録が、共進会当時の盛り場に見られたことは、後の世に伝えて然(しか)るべき資料のような気がする。

 チクオンキが家庭のモノになる前に、矢張(やは)り私設公共物として街頭公開の役目を果(はた)したのは、大正末期ラジオが輸入され、集会場の舞台中央に、延びあがり型のお化けスピーカー一本立てられて、多くの聴衆を集めたと同じ行き方で、チクオンキとラジオの開きが、エジソンとマルコニーの違いこそあれ、総(すべ)て外国渡来のシナモノは、同じ過程をたどるものかと不思議でならないのである。古い広島の盛り場からこうしたサトリの味が出ようとはここまで書いてサトル筆者の感傷でもあろうか。広島城の外濠(そとぼり)が埋められた原子サバクならぬ砂原に老砂絵師の妙技があり、エジソンの発明品が現れて浪曲をうなっていたなど、古い広島人でさえ、あまり知らないことではあるまいか。

 (なお、本文に現れた商品陳列所は、共進会閉会後、即(すなわ)ち大正四年八月十五日より、第二会場の名称から陳列所に改名、更に産業奨励館と改められ、昭和十九年五月限り貸事務所となった。この間、三十年。かくて翌二十年八月六日、カイメツした)

(2015年7月26日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ