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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十二)明神座、その他

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

   この盛り場付近には、明神座、朝日座、柳座の三座が、それぞれやぐらを構えていた。最も本格的なやぐらのあったのは、明神浜の明神座(木谷吉二郎経営)で、朝十時ごろになれば、その日興業がある限り、カタカタと、細ぶちでやぐら太鼓が打ち鳴らされた。その太鼓の音は、柳町から平塚町、駅前界ワイにまで、響いたものである。

 この劇場は、がく屋から小道具部屋まで、昔流の歌舞伎定小屋としてのこしらえで、西部の寿座とともに、広島演劇界を二分していた。

 カンテラろうそくの灯の入った勘亭流書きのあんどんもなつかしい思い出で、阿波徳島からの上村彦之丞の人形芝居、舞台に本水、本ものの蛇を使って、三ケ月からも打った“執念の蛇”劇、文化文政時代そのままの殺しの芝居、血だらけになった死骸を、客席の本池に投げ込むと、早替(がわ)りで蛇の目傘をさしたかみしも姿の美男が、ゲタ履きのまま水中から現れてくるケレン芝居、大魔術を応用した忍術自来也劇、市川鯉三郎の大歌舞伎、素人出身の名女形、通称松島家の浪花ぶし芝居が半年以上も打ちつづけられたが、大正中期にはしばしば新講談の伊藤痴遊、問題の女で知られた本荘幽蘭のざんげ話がこの舞台を色どった。

 また、柳橋西詰には、浪花節専門の小屋があって(朝日座であったか、鶴の席であったか)この劇場で、彌次(やじ)られなかったら一人前になれたという、神聖な浪曲道場があった。彌次られないのは真打ちだけで、その他の連中は例外なしに語りの途中で、ヤジリ倒されるという、浪花節のメッカでもあった。

 この小屋で、来演ごとに人気のあったのは、盲目の浪花家小虎丸で「孝子五郎正宗伝」を、長講一週間も読みつづけたものである。初代京山小円を生んだヒロシマだけに仲間うちでは昔から広島は浪曲道のオモテ街道とされていただけに、物凄(ものすご)い浪曲ファンが多かった。

 そのショウコには、下柳町の柳座は、東遊郭のおいらんを慰めるための定小屋で(そのころ彼女たちの外出は、この一地域からカンタンに出られなかった)人気のあった子供歌舞伎が、いつの間にか浪曲ファンに乗り取られて、節劇の定小屋となった。昼間は八百屋であったり、大工であった若者たちが、夜分はふし劇役者になり、それがおいらんたちに可愛がられて、そのまま本モノになり切ったばかりに、親兄弟、女房たちから勘当されたという悲喜劇さえもあったほどである。

(2015年8月9日中国新聞セレクト掲載)

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