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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十七)サーカス挿話②

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 “有田洋行”と言えば、四十歳以上の、特に女性でない方には、淡い感傷をかきたてる話題であるらしい。(らしいと言うのは、筆者が決して挿話の登場人物でないことをお断りしているワケでアル)洋行といっても、ボウエキ商ではない。

 大正四年の正月であったか、八丁堀もと歌舞伎座跡で、サーカスと言っても、馬を連れない大マ術と曲技を組み合(あわ)せた曲芸団がやって来た。これが有田洋行である。

 大マ術と名のつくものは、明治四十三年春、横町勧工場の演芸館に、新帰朝の松旭斎天一が、娘ざかりの初代天勝を連れて公演して以来のことで、その大道具の珍しさが受けてか、フタ開けの元旦以来、一ケ月間大入(おおいり)満員の好人気であった。

 この時の舞台のこしらえは、馬がいないだけに、円型舞台やトラックを必要としない。したがって劇場同様の舞台を、空中曲技用として、天井が高くつくられた掛小屋のこしらえである。

 座長有田太陽は、天一張りの専ら手先を効かせた。堅実な五つ玉の曲技や、滝の白糸を男で相つとめた水芸の鮮(あざや)かさが好評で、大マ術では女座長有田夏子が、花の如(ごと)き一座の麗人たちを総動員して、気品のあるケンランたる舞台を見せた。それだけに、連日家族連れの見物で賑(にぎ)わったが、とりわけ麗人たちの一人が、殊に思春期前の少年たちに、不思議な人気を集めた話がある。

 話の彼女というのは、漸(ようや)く少女期を脱した年ごろで、自転車曲技もやれば、危(あぶな)い空中飛行もやる。奇術もやれば、水芸も達者にこなした。また、綱渡りでは長袖のキモノ姿で、長唄越後獅子のおはやしに合(あわ)せて、銀線上の所作よろしくあって後、邦楽が洋楽に変(かわ)るトタンにこのキモノを脱いで軽快な動作にうつる。

 このあたりの演出は、極めてシンチョウである。ところが彼女の芸がミジュクなため、キモノを取ると、ムザンにも行動中心を失(うし)なってか、しばしば舞台にバッタリとすべり落ちる。時には、暫(しばら)く立ちあがれぬこともある。彼女の姿が美しいだけに、この場合の痛々しさが目にしみるが、彼女は最後までこの舞台を捨てなかった。この連日の失敗へのけなげさが、不思議なミリョクとなってか、彼女の人気は座長以上のものとなり、中日を越したある日、この興行場前には、大きく引きのばされた彼女の等身大の写真が掲げられた程である。

(2015年9月20日中国新聞セレクト掲載)

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