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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十七)サーカス挿話③

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 等身大の写真というものは、そうザラにつくられるものではない。メイ・ウェスト張りの(先頃ライフで健在が伝えられている)女座長有田夏子よりも、はるかに拡大された彼女の肖像は、一段と輝きを見せた。

 ところが、これを機会に、畳三分の二くらいもある有田洋行の辻ビラの一部が、切り取られはじめた。それも問題の彼女が自転車を持っての舞台姿とか、銀線上の姿がそのまま切り抜かれて、彼女のスリラー的シルエットだけが、異様な空白感を与えた。

 そして、切り取られた彼女の紙人形は、一体どのような扱いを受けたかというに、ある小学校では一人の子供が十数葉も持っていて子供仲間での羨望(せんぼう)の的となった。子供たちは、夜間ともなれば、ハサミを持って、辻ビラの彼女の姿を求め歩いた。一方、興行場前での子供たちの一団は、揚げ幕から見られる彼女にミセられたように木柵にかじりついていた。

 この光景は、美しいものへの憧れの情をソッチョクに現したものであったが、ビラを切り抜き更に夜の興行がハネてから、彼女を尾行して、その行動の詳細を知っているオドロクべき少年のあったのは、この挿話の一つの汚点である。

 彼女の気品ある美ボウ、あどけなさが、これら少年たちの心に、何か温(あたたか)い春の風情にも似たものを与えたらしいのである。

 有田洋行はその翌年の正月、再度現在の金座街に面した一角に現れた。当時はオペラ全盛時代で、曲技は番組面から姿を消して、珍しいオーケストラの編成や、コミックオペラ「おてくさん」とかコロッケの歌が紹介され、照明の完備、どんちょうの立派さは、宝塚の舞台をそのまま広島に移し植えたようで、一年の間に彼女は一段と娘らしくなって、一座の花形となっていた。

 さらに翌年も同じ場所での興行に雨が降っても開演出来る大テントが張られたり相撲式やぐらがつくられて毎朝寒風をついて太鼓を鳴りひびかせた。さらに現在の勧銀前での興行では、タグイまれなる大サーカス団として、ハーゲンベックゆずりのオットセイの曲芸を呼び物に、五十日間の公開を行った。彼女のあでやかさは、さらに光彩を放って事実上の女座長としての人気を博していた。八丁堀界隈(かいわい)への四度目の来演を最後に、彼女の麗姿も見られなくなったが、広島人に与えた好印象は、今もって語り草となっている。

 この挿話の彼女は、有田糸子と言われたはずである。(先頃来演のタカタマサーカスの話では、高松出身の有田洋行は、火災にあってカイメツ的打撃を受けたが、依然小編成で全国を興行しているという)

(2015年9月27日中国新聞セレクト掲載)

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