×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十八)新天地系譜 新天座創生時代②

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 大阪新派がこの劇場で受けたのと同時に、漸(ようや)くサカンになりはじめた剣劇が、この小屋にお目見得(めみえ)したのは、開場翌年の春、小川隆一座の来演からである。神戸八千代座で大当(あた)りをとった「日本最後の大仇討」即(すなわ)ち高野山での仇討ちを上演したが、狂言に馴染(なじみ)がないために受けなかった。然(しか)し「新撰組」「国定忠次」と並べてからは舞台にケガニンも出るという立(たち)回りの激しさが好評であった。

 次には筒井徳二郎一座、(渡米してパラマウントで国定忠次の発声映画を撮っている)明石潮一座、頭山満と小原小春、マキノ映画の高木新平と生野初子―この時、舞台での立回りには本身のモノが使われて、火花が発する物凄(すご)いものであった。それ以上に物凄かったのは、一座のある女優をめぐってこの立回りなかばに、ある男優の謀殺未遂事件があった。―この頃から、なんとなくこの劇場での舞台には、殺気のみなぎったものがあって、倉橋仙太郎が引具した第二進国劇でも、打ち揚げ当夜に次のような出来ごとがあった。

 「幡随院長兵衛」で鈴ケ森の場では、室町次郎の長兵衛と原健作の白井権八との出合いが無事にすみ、水野邸湯殿での長兵衛が十郎左衛門との立回りで、右ももに真槍をあやまって受けて、大騒ぎとなった。舞台に昏倒(こんとう)した室町は、立町の難波病院に運ばれて、一週間入院のケガであったが、この時の唐犬権兵衛が金井修で、後に独立してこの劇場へも数回来演した。室町次郎は、間もなく日活の大作「水戸黄門漫遊記」に一浪人の役で登場をしたが、改名して大河内伝次郎といった。彼を追うて原健作も日活入りをした。反対に日活を出た河部五郎、酒井米子の一座、田中介二一座、林長二郎と千早晶子ら、これらは、昭和初期へかけて、新天座の舞台を賑(にぎ)わせた人たちである。

 開場初期の色ものでは、漫才の砂川捨丸と大津お万、端唄のかぼちゃ山村豊子、無名時代の横山エンタツが、女房にナグラレながらこの舞台でシンボウした。前進座、新築地劇団の初舞台は、昭和三年である。変(かわ)ったところでは、大阪の河合ダンス、広島の羽田歌劇、水芸の吉田菊五郎、五九郎、淡海も定連(じょうれん)で籠寅のケイエイになってからは、実川延若、中村扇雀、花柳章太郎と一流ドコロの顔がそろったのは、昭和六、七年ごろ、また一若改め吉田奈良丸の襲名披露や、初代雲月を慰める大名題連の浪花節大会などの思い出は、寿座での川上音二郎、松井須磨子、沢田正二郎、伊庭孝、高木徳子、丹稲子などの興行とは別の系譜をつくっている。

(2015年10月11日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ