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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十八)新天地系譜 青い鳥歌劇団①

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 二十五年間の新天地興亡史のうちで、毛色の変(かわ)ったデモノといえば「青い鳥歌劇団」であろう。

 そのころ石見屋町出身の大津賀八郎が、伊太利人サルコリイ門下として、東京にそのあっぱれテナー振(ぶ)りをウタワレ、浅草十二階下の金龍館で、豊富な声量、ウタイ振りの正確さで、日本人最初のオペラ歌手として大いに売り出した。彼の郷土訪問公演は、新天地誕生の年、寿座で二日間盛大に行われた。全盛時代のサルコリイをはじめ、安藤文子、クルーピン、竹内平吉らが来演して、豪華な舞台を見せたのも、つい先頃のようである。

 しかし関東大震災を契機に、さしもケンランさを誇った歌劇も本場浅草を焼け出されて、十数劇団に分裂、全国巡業をヨギなくされて、おとろえの道を辿った。さすがに大津賀も、一応地方回りをあきらめてか、そのころ泰平館といっていた新天地西詰の映画館を根ジロに歌劇専門館として「青い鳥歌劇団」の名乗りをあげた。

 彼の傘下に集った者は盟友林正夫をはじめ、築地小劇場に入る前の丸山定夫、水品春樹、若宮美子、しばらく甲陽映画にいた保瀬薫、大津賀が逗子靖子と別れてからの愛人園春枝、トウダンスの浪花君子、ピアニスト秋本昇らを幹部に、東京、大阪からハセ参じた十数名の座員、広島採用の「その他大勢」専用の研究生と称するペラファンを入れて、凡(およ)そ三十五名ばかり、これが青い鳥たちである。

 勿論、舞台前にはオーケストラ・ボックスがあり、どんちょうはブルバード模様の本格モノで、舞台のこしらえ、照明ともに立派で楽劇、コミックオペラ、ボードビルと称するショウの如きものからバレー、ダンスと、ひととおりの歌劇商品を並べて、入場料五十センで昼夜二回の開演であった。

 特に座長大津賀八郎が、最も得意とする「リゴレット」「パリアッチ」「デアボロ」を矢継ぎばやに唄って、場内をワンワンと唸らす趣向になっていたが、あまり入場者がなくて本人もいささかテレ気味のところへ、どうしたことか二年前、寿座での公演ほどの声量とは受けとれなかった。

 大衆には、一向にお玉じゃくしが読めないので、彼が燕尾服を着用し右手に白手袋を持って、舞台中央で極めて大声で、どの程度長く息がつづくかが感ぜられるように唄いマクレば、ウケたのであるから、実際には、忠実に曲譜に合わせる以上にムツカシイものであったかも知れない。

(2015年10月18日中国新聞セレクト掲載)

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