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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十八)新天地系譜 青い鳥歌劇団③

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 ヒロシマを飛び去った“青い鳥”は、暫(しばら)く四国、九州を巡業したが間もなく解散した。全盛を極めたオペラも、既にチョウ落の年で一方では築地小劇場の誕生前で、漸(ようや)く新劇時代に移ろうとしていた。その後大津賀の愛人園春枝は、東都、大阪方面の新興劇団で活躍したのに、彼の消息はのどを潰したと、風の便りだけであった。

 広島放送局が開局した昭和三年の夏、珍しく彼の独唱を売り込みに来た男があったが、日取りの都合かで実現しなかった。それから十年後、彼が満州(現中国東北部)奉天で病気に倒れたのを、義侠なあるマダムが見まもっているという報道が、内地新聞に美談として書きたてられた。

 更(さら)に後、それは昭和十七年の春であったか、新天座が広島東宝劇場となってからの舞台に「大津賀劇団」のメクリが帖(は)られ、寸劇、歌謡曲と織り込んだ小さなショウが、別のグループと合同で開演した。寸劇の合い間にダブダブの燕尾(えんび)服に、純白の手袋を右に持ち幾分猫背で頭髪も白くなった大津賀八郎が、舞台中央に現れ「岩にもたれた物凄(すご)い人は」とデアボロを唄(うた)った。然(しか)し彼の昔の華やかさを知る筆者には、痛々しい感じしかなかった。これを聞く観客もチンプン感で、一座としては歌曲に合わせた踊りの小品が、受けただけであった。

 浅草以来二十数年にも渡った彼の半生は、オペラ一本でとおしただけに、十五、六年後、同じ新天地の舞台を踏んで、どんな感慨であったであろうか。本格的オペラを郷土人に馴染(なじ)ませようとした彼の努力には、一向に報いられるモノがなかったが、そのかみのヒロシマの盛り場に、そして当時の広島人に与えた好印象は、原爆後の今日でも思い出されるのはセメテもである。その後の彼の消息は不明である。

 大正十一年の秋、世界的ダンサー、ロシアのアンナ・パヴロバ夫人が(横浜のパヴロバ姉妹ではナイ)寿座で、定評ある「瀕死(ひんし)の白鳥」と「仙女人形」を上演したり、その同じ舞台にアメリカ一流の舞踊団、デニスとショオン夫妻の「デニスショウ」が公開されたことを知る人も、少なくなったことであろう。更に西本朝春、岩間桜子の国華座、石井漠、沢モリノの東京オペラ座、小池夢坊、漠与太平らのオペラ族が、相次いでヒロシマの西の盛り場にタムロしゴナンして、毎日、軍艦焼を食べながらハダカゲキの子供たちに足の揚げ方をおしえたなど、夢のような昔ばなしである。

(2015年11月1日中国新聞セレクト掲載)

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