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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十八)新天地系譜 まんざい時代①

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 新天地創立当時、新派、剣劇の合い間には、レコードで売り出した砂川捨丸の漫才、尺八の加藤渓水、音曲の大津お万、山村豊子、無名時代の横山エンタツなどがかかったことは、前稿のとおりである。

 例のカワリ者といわれた江戸家猫八が、どう戸惑ったか、猫遊軒八一座の客員の看板で、物真似だけに甘んじていたのも、新天座の舞台で、昭和四、五年頃のことである。

 それが昭和七、八年頃となると東新天地の映画館天使館が「演芸館」となり、色ものの定席となった。(その以前には日進館が、天使館の出現で、暫(しばら)く花月という寄席になったこともある)新天地のレキシに新派時代、剣劇時代、映画時代があるとしたら、この演芸館での二年間は、漫才時代ともいえるであろう。そして、この時代の人気者は、修業時代の先代ミス・ワカナと永田キングである。

 ワカナは、一昨年西宮球場でのロケ先で急逝したので、彼女に広島時代の感懐を聞くスベをなくしたが、彼女が玉松一郎とコンビになる前には、浪花家若菜といって同じ年ごろの娘と組み、なにか回答ごっこをやり、観客の判定で、負けた方が墨汁をぬられるスミ漫才に明け暮れていた。スミだらけになった彼女が「なンが、おかしいンなら、どッたンなら」と、広島のがんす調で、お客の笑いに食いさがるという演出を採っていた。間もなくデクの棒みたいな一郎と組み、音楽漫才への道を拓(ひら)こうとした彼女である。幸か不幸か、音楽への道の、彼女の努力はむだであった。というのは、何を苦しんで、玉松がチェロを持ち出したのか、彼女の唄う歌はこのチェロには一向に乗らないシロモノであったからである。それにこのチェロ男は、ワカナの相手になれるほどのシャベリ男ではなく、ワカナのたくみな話術に、ただ「うなずく」というだけのピリオッド的役割しか果(はた)し得なかった。ワカナはいきおい「自分でしゃべらなくては」という戦法をとり、ここにワカナだけの「話術まんざい」を完成したのである。彼女は「カタカナ」しか読めないところから、「ワカナ」と名付けたという者があるが、これはこじつけである。彼女は小屋がはねて後、新天地のおでん屋街に現れ、広島ベン丸出しで、客の誰彼と朗らかな笑いを交わしていたが、これこそ彼女としては、舞台以上のベンキョウなのであり、のちに「方言まんざい」の完成を見たというワケである。それにしても亭主と並んでの舞台で、ミス姓を名乗ったなどあッぱれ以上のワカナである。

(2015年11月8日中国新聞セレクト掲載)

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