×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十八)新天地系譜 まんざい時代②

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 永田キングの場合――彼は弱冠ながら座頭格で、ワカナたちを引きつれていた。小男で精力的な彼が、舞台一ぱいに飛び回った「スポーツ漫談」は、動きの芸であり人見絹枝シッ走のポーズは、もっとも堂に入ったものであった。妹のミス・エロ子と組んでの若々しいマンザイは、そのころのエゲツナイ漫才とは、かけはなれた新鮮な楽しさがあった。エロ子という名でも、彼女が実妹であったセイでか、一向に色気らしいものが湧かず、時にキングが無作法(ぶさほう)を試みても、これが決して下品にならないというのが、この妹まんざいの特色であった。

 マンザイ仲間がよく演る「沖の暗いのに」という唄を、ある時はテンポを速め、ユルメ、間ノビをさせ、それに合わせてキングがいとも朗らかに、達者に踊るのである。取りすましたエロ子もうまかったがキングの激しい躍動が何よりの見もので、彼が得意とした両耳につるしたハーモニカの吹奏もひろしま時代の考案であり、ズボンの足裏全部をくり抜(ぬ)いた半ズボン装置も、この舞台での所産である。(半ズボンというのは、膝までの短ズボンの意味ではない。普通の長ズボンをはいたまま、後半分を切り取ったタテ型半ズボンである)後に彼は大阪に買われ、さらに浅草でキング一座をつくりケン劇の真似をはじめ、東宝映画にも出たが、彼の芸の面白さはエロ子とのマンザイ時代であり、半ズボン時代であった。それにしても、好漢その後の消息がきかれないのはさびしい。

 エロ子も、のちに独立して軽演劇一座を組織し、新天地の舞台に現れ、立派に成長した姿に脚光を浴びながら、昔なつかしいマンザイ時代の感ガイを述べて、歌謡曲をうたった。すると、その歌とドンな関係があったのか、小野佐世男ごのみの一人の女の子が舞台に倒れた。すると若い男が出て来て倒れている彼女のスカートをつまみあげて、大向うをうならせた。たしか昭和十七年春のことであったが、まさに肉体劇のさきがけである。

 兄貴と別れたミス・エロ子が、まこと大いに成熟したところを、久しぶりに広島人に見せて呉れたという演出になるのであるが、そのかみの演芸館が、ワカナ、キング、エロ子と、カタカナマンザイ人を育てあげた殿堂(大げさにというナカレ)であったことを思うにつけ、東新天地焼(やけ)跡の石くれにもナツカシイ盛り場の感傷はあるものぞ。

(2015年11月15日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ