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社説・コラム

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (十九)活動写真現る

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 映画の前身、活動写真が、最初に広島に現れたのは、いつであったかはしらない。もっともこれを知っておくということは、広島の盛り場を語る上に、一応そのセンサクをする必要がある。

 筆者のおぼろ気な記憶としては明治四十一年(一九〇八年)の夏、中島集散場の定小屋に、シネマトグラフが公開された。この定小屋というのは、その西隣りに広島最初の映画館として、世界館が現れる以前のことであるから、古い話である。この劇場は娘歌舞伎セン門の定小屋であるが、このシネマトグラフの公開で、臨時に芝居の方は休演したのかも知れない。

 その晩この小屋は、文字どおりの満員で、やがて幕が開くと、舞台中央にワケの判(わか)らない機械が並べてある。すると一人の洋服紳士が現れて、この機械についてなにか説明をはじめた。可なり永い時間であったようである。そして台の上にならべられた、ガラスのようなモノに、青黄色の強烈な光が点ぜられた。場内がなんとなくキンチョウしたと思われたとき、その紳士はさらに舞台の前方に出て畳一枚くらいの大きさに張った白幕をおろしはじめた。このとき、機械のあかりが、急に真紅な火花となって、可なりの音響で爆発した。瞬間筆者の小さな身体は宙に浮いて外に運び出された。――というのは、伯父のたくましい腕に抱えられて、混乱の観衆の中をくぐり抜けたワケである。折角(せっかく)の興行も、この騒ぎで見損なったのであるが、どうやらこれは、シネマトグラフの一種で、自動幻画と言われるものではなかったかと思う。明治二十九年に輸入されたバイタスコープとシネマトグラフの記録をたどると、スクリーンのうしろ側から映写する当夜の仕掛けでは、どうでもシネマトグラフの実験であったような気がする。最も明治三十年、東京の神田錦輝館が、日本最初の映画常設館となり、弁士の元祖駒田好洋が現れてから、既に十年以上も経過しているし「写真が活(い)きて動く」というので「活動写真」と命名した、福地桜痴居士の話にしても、同じ十年の時が流れているだけに、それまでたたみや町寿座や十日市町新地座あたりで、活動写真の公開があったであろうくらいの想像はつく。筆者がシネマトグラフの実験を見損なったと思うのは必ずしも広島での最初の、活動写真ではなかったかも知れないが、カツドウ現るの昔ばなしには、一点鐘ぐらいの値打ちはありそうである。

(2015年11月22日中国新聞セレクト掲載)

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