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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十一)「世界館」たん生

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 広島最初の盛り場は、中島本町集散場で、その中心は娘芝居の定小屋であった。ところが、明治四十三年頃、この小屋のとなりに、活動写真常設館として世界館がたん生した。これが広島最初の映画館で、その翌年、堀川町中央勧商場の娘義太夫がスタレて、八千代座がそのまま世界館に次ぐ映画館となったので、広島のカツドウ写真史を語るには、この二つの小屋を忘れてはならない。

 世界館はモッパラ横田商会の作品である初期尾上松之助の写真を上映し、いわゆる「はやし鳴物、声色をあしらって」の演出で、上方そのままやりかたを広島に植えつけたのである。そして松之助の声色は、よく肥(ふと)った女ベン士の担当で、四十二年十月の松之助第一回映画「碁盤忠信」は別としても彼が「目玉の松っちゃん」といわれる下地をつくった〝石山軍記〟や木村長門守、酒井の太鼓、一心太助、柳井二かい堂、笹野権三、飛彈の匠、相馬大作など、大正初期にかけてこの世界館で上映されたことを記憶している。松之助の立回(たちまわ)りモノが、もちろん、呼びものであるが、当時の映画興行のたてかたは洋物と併用され、その洋物のうちに泰西正劇、活劇、滑稽、実写の四種目に分類されていた、すなわち松之助モノ一本に正劇一本、それにお添物のコッケイ、実写二本ずつくらいが番組のたてかたであり、上映時間三時間、日祭日だけ昼夜二回の興行であった。

 正劇の解説者としては、のちに桂大正が主任ベン士となって、堂堂たる説明で大向(むこ)うをうならせたが、子供連中に人気のあったのは滑稽モノ担当の清水某であった。清水は、いつも颯爽(さっそう)たるタキシード服で自転車に乗り、中央勧商場の八千代座付近に現れて、あちこちの悪童どもに愛嬌(あいきょう)を振りまいたので「世界館の清水だ」と、紙芝居以上のもてかたであった。

 この男、よほどの子供好きと見えて、自転車から降りて子供達(たち)と石蹴りをやり、ゴムまりの投げ合いまでやるので自然子供たちに馴染(なじ)まれ、コッケイ物の前説で舞台に現れると、子供達から割れるような拍手で迎えられた。今一つこの男の変(かわ)ったところは、タキシードのホックに大きなバラの花をさしているのが、何かのきっかけで左手をうしろに回すと、これに仕掛けられた豆電球がパット点灯されるので、このイルミネーション装置がまた子供たちに受けたのである。彼はベン士としては典型的な好男子のようでもあった。

(2015年12月6日中国新聞セレクト掲載)

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