「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十三)帝国館の出現
15年12月20日
文・薄田太郎 絵・福井芳郎
広島に電車が走りはじめたのは大正元(一九一二)年十一月二十三日である。広島城の外濠(そとぼり)が埋められてから、この電車が走るまでには数年もかかっているはずで、その間現在の八丁堀福屋前から、かつての白島行電車道にかけての埋立地(うめたてち)には全盛時代の常陸山、梅ケ谷両横綱の興行で、この辺りが急に賑(にぎわ)ったことを思い出す。埋立地に馬場がつくられて、関取たちが小馬に乗って走ったり、角力(すもう)場入口(いりぐち)に丁度(ちょうど)、昔の中の棚の石橋あたりから柳の大木五、六本があって風情を添えていた。そこへ二人曳(ひ)き二人押しの人力車で場所入りした梅ケ谷が、弟子どもに手を取られて、ようやく車を降りて入口に吸い込まれた後(うしろ)姿など、これらは明治調最後の八丁堀風景である。
そして、大正二年の夏であったか、福屋の裏口あたりを表玄関として木造の活動写真常設館が建てられ、その名も「帝国館」というのが出現した。これがヒロシマでは第三番目にランクされる映画館である。丁度この向側に電車線路敷設の事務所があって、帝国館の屋根がサカンに造作されている時この事務所の前には籠で組んだアーチがつくられ、万国旗をハリめぐらした線路しゅん工の祝いが開かれたようである。
さて、帝国館の第一印象は、高く掲げられたペンキ絵看板である。これは当時関西第一の名手と言われた「づぼら氏」の傑作である。「づぼら」と言えば当時大手町四丁目あたりにあった看板屋で、主人は広島奇人伝中にはいる人物である。同氏が描いた堀川町油屋「中忠」の大看板「べっぴん顔」は広島近郊にはあまねく知れ渡った作品で、大正年間生(うま)れの人たちの記憶にもあることと思う。同氏の看板サインは、小壺(つぼ)にづぼらとひらかなで書いたもので現在の広島にはおそらく一枚として、このサインのあるものは見られないと思うが、そのかみの広島風景を色どる道具建の一つであった。
看板というのは時代劇が「木村長門守」で、例の颯爽(さっそう)たる血判とりの長袴姿、新派では「己が罪」の二少年、波間の岩上に相抱くの図、別に一人の壮士が拳銃で一人の壮漢を射つの図、洋物では活劇「死の猛じゅう狩」でライオンと遭遇した探検家一行がシンチョウに構えた図、実写としては「ヨット競走」の図で、これらの看板は開場以来およそ二年間、そのまま飾られてあったはずで、づぼら氏がなんでも描きコナスという意味の看板でもあった。
(2015年12月20日中国新聞セレクト掲載)
広島に電車が走りはじめたのは大正元(一九一二)年十一月二十三日である。広島城の外濠(そとぼり)が埋められてから、この電車が走るまでには数年もかかっているはずで、その間現在の八丁堀福屋前から、かつての白島行電車道にかけての埋立地(うめたてち)には全盛時代の常陸山、梅ケ谷両横綱の興行で、この辺りが急に賑(にぎわ)ったことを思い出す。埋立地に馬場がつくられて、関取たちが小馬に乗って走ったり、角力(すもう)場入口(いりぐち)に丁度(ちょうど)、昔の中の棚の石橋あたりから柳の大木五、六本があって風情を添えていた。そこへ二人曳(ひ)き二人押しの人力車で場所入りした梅ケ谷が、弟子どもに手を取られて、ようやく車を降りて入口に吸い込まれた後(うしろ)姿など、これらは明治調最後の八丁堀風景である。
そして、大正二年の夏であったか、福屋の裏口あたりを表玄関として木造の活動写真常設館が建てられ、その名も「帝国館」というのが出現した。これがヒロシマでは第三番目にランクされる映画館である。丁度この向側に電車線路敷設の事務所があって、帝国館の屋根がサカンに造作されている時この事務所の前には籠で組んだアーチがつくられ、万国旗をハリめぐらした線路しゅん工の祝いが開かれたようである。
さて、帝国館の第一印象は、高く掲げられたペンキ絵看板である。これは当時関西第一の名手と言われた「づぼら氏」の傑作である。「づぼら」と言えば当時大手町四丁目あたりにあった看板屋で、主人は広島奇人伝中にはいる人物である。同氏が描いた堀川町油屋「中忠」の大看板「べっぴん顔」は広島近郊にはあまねく知れ渡った作品で、大正年間生(うま)れの人たちの記憶にもあることと思う。同氏の看板サインは、小壺(つぼ)にづぼらとひらかなで書いたもので現在の広島にはおそらく一枚として、このサインのあるものは見られないと思うが、そのかみの広島風景を色どる道具建の一つであった。
看板というのは時代劇が「木村長門守」で、例の颯爽(さっそう)たる血判とりの長袴姿、新派では「己が罪」の二少年、波間の岩上に相抱くの図、別に一人の壮士が拳銃で一人の壮漢を射つの図、洋物では活劇「死の猛じゅう狩」でライオンと遭遇した探検家一行がシンチョウに構えた図、実写としては「ヨット競走」の図で、これらの看板は開場以来およそ二年間、そのまま飾られてあったはずで、づぼら氏がなんでも描きコナスという意味の看板でもあった。
(2015年12月20日中国新聞セレクト掲載)