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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十四)最初のベン士劇

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 帝国館の開場で、八丁堀界隈(かいわい)の盛り場色がはっきりして来た。世界館や八千代座よりも、電車道に面したという地理的条件に恵まれてか、連日一銭入の大入袋(おおいりぶくろ)が出された程の盛況さであった。(大入袋とは、館主側から使用人や、くろうと筋に出された祝儀で、その後のとおり相場は、二銭銅貨一枚とされていた)昔流に考えるとこの頃の映画館繁昌(はんじょう)では、毎日数回も二十円位の大入袋を出さなくてはならない義理合(ぎりあい)になる。

 帝国館の主任弁士は山下翠月で胡町角の洋服屋の次男坊とかで、広島の方言丸出しのお解説と、カン高い女の声色を得意として、開館早々の人気を博した。またこの翠月氏には野球の特技があって、当時広島実業団チームの草分けであった「四時半クラブ」のメンバーで、鳥打(とりうち)帽を逆被りにした名一塁手振(ぶ)りが思い出される。現在の千田町電鉄車庫あたりが、球場であった頃の話である。

 大正四年であったか蕗の家凌雨、桜井ろ畔が参加して、その頃神田周三初期の画題によく扱われた広島監獄を脱走した三人男の芝居が、この映画館で上演された。その三人男には翠月、凌雨、ろ畔がなるので、いわゆるベン士劇を、映画のあいだにハサンだことになる。これは映画三本だてのところが、なにかの都合で二本どまりとなり、時間の穴埋めにベン士劇を思いついたのかも知れないが、そのいきさつは知らない。(このカンゴク脱走事件は、連日新聞に掲載されていただけに、広島人の話題となった。しかし、ベン士劇はこれを喜劇化したものであったような気がする。その頃の話題といえば、竹屋村の商業学校ウラの昼火事で、子供が二人焼死したことがあり、それがのぞきからくりに仕組まれて、永い間お祭りなどに持ち回された)

 この時の舞台で、三人共に赤い囚人服を着てはじめからほお被(かむ)りをして、一本の細づなを頼りにあまり高くないヘイを越すあたりは、品のない四千両芝居であった。

 また、この年からはじめられたのではないかと思うが、中国新聞社主催の「ベン士変装競争」というのが、さくら時の饒津公園で盛大に行われた。天満宮が審査場で、ベン士が捕まると音楽隊の演奏で、それが本人であることを知らせる。そして、その晩は扮装(ふんそう)のままで、舞台からあいさつするのであるが、乞食(こじき)に変装してツカまらなかった翠月や凌雨が「おありがとうさま」と本モノそっくりの口上で大カッサイを博した。後には中国新聞社の春の行事として、ベン士のほか券番の芸妓(げいこ)、たいこもちを加えて、益々(ますます)盛大に催された筈(はず)である。

(2015年12月27日中国新聞セレクト掲載)

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