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「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十六)日本館と太陽館(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 帝国館のユ社連続物が大人気だった大正五、六年頃、その東どなりにローラースケート場があったが、この運動場が潰(つぶ)されて日本館が竣工し、夏に道路を距(へだ)てた東どなりには(現在の帝劇の位置)太陽館がかがやき、八丁堀に映画三館が並ぶ盛況さであった。

 太陽館は、胡町通から八丁堀へ抜ける側に正面を向けていたもので、はじめから電車通に面していたワケではない。西の世界館同様、尾上松之助映画で売(うり)出し、づぼら屋主人が毎週映画の替(かわ)り日には、たたみ三枚以上もある大看板を、この小屋前で描くのであるが、これを見物するヒマ人たちも相当な数であった。(因(ちな)みにその頃の看板絵は、登場人物の似顔を描かなくてもよかった。その代(かわ)り定紋などを入れて、役者の配役を現していた)

 松之助の豪傑モノ又兵衛、忍術モノ佐助、剣士モノ重太郞、侠客モノ忠治など、殆(ほと)んどが上映され、時には宮島ロケ帰りの松之助や実川延一郞までがこの舞台から挨拶(あいさつ)をした。(松之助のロケ写真は今でも宮島の海岸通で見られる。これは御三家三勇士を撮りに来た時のことで、延一郞のロケは、饒津の鶴羽根神社の石橋で行われて見物人が池の中に落ちる騒ぎもあった)

 松之助の作品は殆んどがこの館で上映され、大正十四年につくられた一千本記念映画「荒木又右衛門」などは、忘れがたいものである。新派モノでは、日活向島派の衣笠貞之助、山本嘉一、藤野秀夫、島田嘉七、東猛夫出演のものが永い間上映され、大正三年に撮られた問題作、立花貞二郞、関根達発の「カチューシャ」もここで封切られた。

 大正九年以後は、ベン士も声色調から解説調にうつった。というのは、映画の演出に変革がもたらされたからである。即(すなわ)ち舞台協会の森英治郞、中山歌子の「夜明け前」、岡田嘉子の「どくろの舞」、小杉勇、夏川静江の「海のない港」、中野英治、岡田嘉子の「大地は微笑(ほほえ)む」、岡田時彦の「日本橋」の現代モノ、浅岡信夫、鈴木伝明らのスポーツものから、河部五郞、尾上多見太郞、酒井米子の「鳴門秘帳」「修羅八荒」、大河内、伊藤コンビの作品「国定忠治」「丹下左膳」と変(かわ)り、さらにトーキー初期の作品、藤原義江、夏川静江の「ふるさと」などは、いずれもここで上映された。

 また、初期太陽館では、のちの女流浪曲の大モノ巴うの子が、そのおさげ髪、むらさき袴(ばかま)の少女時代を、日吉川うの子といって、映画の合間に、赤穂浪士伝を聞かせていた。

(2016年1月17日中国新聞セレクト掲載)

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