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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十七)白島まで聞(きこ)えた声

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 太陽館で忘れられないのは、大声の呼び込み屋で、あの電車通に面して「いらっしゃい、松之助の児雷也はこちら」というバン声は白島の電車終点近くまで聞えた。八丁堀にサーカス有田洋行が来た頃は、その音楽団のメロディが冬の寒空にひびいて、白島は神田橋近くまでよく聴(きこ)えたというのであるが、実はそれ程にも思わなかった。ところが、この呼び込みのおっさんの声が、時には神田橋近くに住んでいた友人の耳に入ったと聞かされて、オドロイた。その日の風の吹き具合では聞かれたとしても、まさに、咽喉から出るだけの声にしては、オドロキである。立派なついたてのような体格のおっさんで、大正六年頃まで、館のドーム下の入口(いりぐち)にイスを構えた、颯爽(さっそう)たる姿であった。

 その後、交替したおっさんは、それ程大きくもナイ声であったが間もなく太陽館をやめて、流川夜店街の面倒を見ていた老人であったように記憶する。

 またこの館では「飛び出す写真」を上映したことがある。これは入場する時、青赤のレンズを入れた紙製のメガネを貰(もら)って、飛び出す写真がウツされる時、それを目に当てて画面を見ると、同じ赤青の色だけでつくられた映像が、自分の方へ飛び出してくるようになっている。例えば、一本の大きな棒が自分の鼻の方へ突進して来たり、ホースからの放水が自分の顔にかかって来るような錯覚を起こさす仕掛けになっていたが、それにしても入場者に洩(も)れなく、紙製のメガネを呉(く)れたなど、昔ならでは出来ないことである。

 なお、当時の映画館で心あたたまる思い出といえば、おばサンのようなお茶子さんが、あの真暗いなかを、懐中電灯片手に所定のイスまで親切に案内して呉れたもので、最近の映画館受付女史のようにカンリョウ的なのは一人もいなかった。

 書き落(おと)したので補筆するが、例の「活ベン」の元祖、駒田好洋はその頃「頗る非常大博士」と自称して、しばしば十日市町の新地座(のちに広島劇場という映画館になった)に来演して、伊太利イタラ会〓の「カビリヤ」「マチステ」「ミゼラブル」などを上映して、相変(かわ)らざる「頗る非常」の言葉を繰返(くりかえ)していた。また、明治四十三年の大壮挙といわれる白瀬中尉の南極探検隊と同行したMパテー商会カメラマンの記録映画は、大正元年の暮(くれ)たたみや町寿座で公開され、白瀬老中尉のその夜の講演が思い出されるが、舞台に防寒具やペンギン鳥のハクセイが飾られた。三十七年も昔のことである。

(2016年1月31日中国新聞セレクト掲載)

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