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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (二十八)東洋館と昭和シネマ(その2)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 新天地の東洋館はその後泰平館さらに帝国座と改められて、帝キネ作品「籠の鳥」をはじめ、市川百々之助、尾上紋十郎、小島陽三たちの幕末物専門館となり、現代モノでは断然、歌川八重子のウケた時代で、八丁堀にできた歌舞伎座も、こけらで雁治郎を迎え、我童、寿三郎、文楽座、中山延見子名人会とすべり出しが順調であっただけに、直(す)ぐに行きつまって羅門光三郎、原駒子の実演を機会に、漸(ようや)く東亜キネマ映画の封切館として東部への進出となり、広島でのロケ映画、大井正夫、椿三四郎らの「広島行進曲」も上映されたが、間もなく大都の前身、河合映画の直営館となり琴糸路、阿部九州男たちの顔が見られたのは、昭和四、五年頃のことである。

 この歌舞伎座は一向に芽が出ず東宝に買い取られるまでは、その巨体をもてあますだけであった。同じ頃、広島駅前に、松原館がたん生している。このあたりが無声映画の全盛時代で、つまりは解説者の大いにウケた、黄金時代でもあった。

 放送でも、解説者の映画物語が企画され、JOFKでは昭和三年(一九二八年)九月九日を始めに、映画週間の特別番組として、大阪からの出演者を混(まじ)えて、次のように並べている。これも二十年前のヒロシマ昔話の一つで、幸い原爆をまぬかれた番組記録によると次のように書き留められてある。

 すなわち、第一日の九日「邪痕魔道」大阪朝日座の山崎錦城、十日「お姫草」東洋座の川路健、十一日「血煙高田の馬場」太陽館の里見凌洋、十二日「椿姫」大阪松竹座の里見義郎、十三日「丸橋忠弥」、東洋座の奥一郎、十四日「サンライズ」日進館の手島春粋、十五日「国定忠次」大阪朝日座の伍東宏郎等で、これらは若かりし旭爪プロデュウサーの企画であったワケである。

 なお、広島出身のジョージ桑原が、流川町の風呂屋に寄寓(きぐう)して、FKのマイクから「ハリウッドの近況とロスアンゼルス」という漫談を放送したのは、この年の十月十八日で、盛り場の映画人たちとの、交遊の毎日がつづいた。後年筆者は、ヘンリー小谷や松井翠声から、彼が生前、広島でのこのころの思い出を、懐かしんでいたことを聞かされて、今更の感に打たれた。(合掌)

 盛り場と放送局とのつながりが濃くなったのは、故安井八翠坊が珍(めず)らしい五色の動くネオンサインを、FK入口二階に取りつけたころからである。

 JOFK 日本放送協会(NHK)広島放送局の呼び出し符号。同局は1928(昭和3)年7月に同協会中国支部として開設され、ラジオ放送を開始。34年に広島中央放送局と改称後、原爆で広島市上流川町(現中区幟町)の局舎が壊滅した。復旧後、60年に現在地の中区大手町に移った。

(2016年2月14日中国新聞セレクト掲載)

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