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連載・特集

ヒロシマと建築 岡河貢 <6> 大高正人「基町アパート」

平和都市の住まい追求

 1960年代後半ごろまで、広島市中心部を流れる太田川の河川敷には、川に木ぐいを立てて、その上に床を張り、粗末な材料でできた壁と屋根が取り付けられたバラックが密集する風景が見られた。

 このバラックの集まりは「原爆スラム」と呼ばれていた。被爆後に自然発生的に不法占拠により川沿いに掘っ立て小屋ができたのが広がり、無法住宅地となっていたが、そこにも、人々の日々の精いっぱいの戦後を生き抜こうとする生活があった。

 基町アパートは、そうしたバラックに住む人たちの生活を受け入れる目的などのために造られた。戦後の日本における集合住宅計画の中でも、理想が追い求められた建築物だった。ここに込められた理想とは、被爆後のヒロシマを何とか生き抜こうとバラックで生活していた人たちが、よりよく暮らしていくための近代的集合住宅の設計であった。

 このアパートを設計した大高正人(1923~2010年)は、近代建築のパイオニアの一人であるル・コルビュジエ(1887~1965年)に学んだ前川國男(1905~86年)を師匠に持つ。そのスタッフとして建築設計を学んだ経験がある。

 近代建築においての集合住宅とは、市民の都市での住まいがどうあるべきかを追求する最も重要なテーマであった。

 ル・コルビュジエは、南仏のマルセイユにユニテダビタシオンという、近代を代表する画期的な集合住宅を設計している。これは、単に住居の集合であるだけでなく、商店街や学校なども含んだ、いわば立体都市の実験であった。

 大高正人は、日本における日本人のユニテダビタシオンを、基町アパートの設計の中で提案していると考えられる。柱だけで構成されたピロティという1階部分、屋上庭園、商店街のどれも、ル・コルビュジエがかつて提示したユニテダビタシオン(49年)の要素を思い描きながら、広島での独自の組み立てを行うことで平和都市の集合住宅を試みているように思う。(広島大大学院准教授)

(2015年12月25日中国新聞セレクト掲載)

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