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社説・コラム

『想』 大畠勝彰(おおはた・まさあき) 100年の重み

 1916年12月、東洋証券株式会社の前身である斉藤正雄商店が呉市に産声を上げました。当時の広島では広島藩により設けられた「綿座(わたざ)」の伝統を引き継いだ広島米取引所がありましたが、株式の取引は中断していました。20年、広島株式取引所が設立され株式取引が再開。しかしその後、世界経済は不況に陥り、日本も第2次世界大戦に突入してしまいます。原爆が投下され、広島市中区にあった広島株式取引所の建物も当社家屋も消滅。当社職員も7人が犠牲になっています。

 戦争が終わり、斉藤正雄は翌年、上柳町(中区上幟町)の自宅跡に家屋を建て取引を再開、投資家の株式換金需要に応えていきました。爾後(じご)、西日本の株式市場の中心的企業として発展を遂げました。67年、東京の高井証券と合併して広島高井証券が成立。71年、東洋証券と名称変更し現在に至っています。

 私が入社したのは78年です。父の仕事の関係から宇部市で生まれ、小学校6年生まで瀬戸内海に育てられました。その後、父の転勤に伴い名古屋市へと引っ越しましたが、心の中には常に瀬戸内海がありました。大学を出て就職をする時、広島発祥の東洋証券に決まったのは海が呼んでくれたのだと思います。

 91年、36歳の時に広島支店に勤務。4年間、東区牛田の丘陵地帯に立つマンションで暮らしました。そこからは瀬戸内海がよく見え、夕暮れ時の深緋(こきひ)色に輝く地平線と夜の海に沈んでいく江田島の景色は私のみならず、家族にとっても忘れ得ぬ思い出として刻み込まれています。95年に広島を離れましたが、2002年、広島に戻り、東京に戻るまでの6年間を暮らすことができました。

 今年12月、東洋証券は100周年を迎えます。大戦と原爆を乗り越えてきた歴史の重みを感じながら、これからも投資家と事業体の皆さまに真摯(しんし)に向き合っていきたいと心を新たにしています。そしてその仕事を終える時、江田島に居を構え瀬戸内海を見ながら暮らすのが私の今の夢なのです。(東洋証券社長)

(2016年4月28日中国新聞セレクト掲載)

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