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社説・コラム

『想』 一坂太郎(いちさか・たろう) たたかい続ける人

 吉田拓郎の歌を聴くようになり、30年以上たつ。1970年デビューだから、活動期間の4分の3、僕はファンを続けている。だが最初の10年をリアルタイムで知らないのは残念だ。

 この10年は、刺激に満ちていたらしい。単独での全国ライブツアー、オールナイト野外ライブ、アーティストによるレコード会社設立等々、拓郎の言動は挑戦的だった。だから、保守的で排他的な日本社会は戸惑い、このパイオニアをどう扱うかを模索したようだ。大ヒットした「結婚しようよ」は従来のフォークファンから「日和見」と罵(ののし)られ、ライブでは「帰れ」コールが酷(ひど)かったと聞く。確かに、政治色の濃いフォークからすると異色だ。

 時代と共存する歌もよいが、拓郎はもっと人間普遍のテーマを扱った。だから40年たっても、色あせない。僕もたとえばデビュー作「イメージの歌」の「たたかい続ける人の心を/誰もがわかってるなら/たたかい続ける人の心は/あんなには 燃えないだろう」の一節に、何度励まされたことか。そんな歌詞を20歳そこらで書いているのは、驚異である。以後の拓郎の人生を暗示するような歌詞でもあり、ご本人も後年答え合わせのような気分で、歌い続けていたのではないかと思う。

 故郷(生まれは鹿児島だが)広島を正面から扱ったのは「いつも見ていたヒロシマ」くらいだが、トンボも蛙(かえる)も、姉さん先生も消えたと歌う「夏休み」の背景に、原爆の夏があると言う人がいる。そんな祈りの歌として聴くと、また一味違う。

 一昨年夏、68歳の拓郎は関東限定で5本のライブを行ったが、僕は横浜会場で聴いた。広島でのアマチュア時代の「わしらのフォーク村」を、楽しげに歌う拓郎がいた。また、同時期に出たアルバム「AGAIN」中の「アゲイン(未完)」の「完成版」が披露されたが、最後の1行は「僕らはいまも自由のままだ」。たたかい続ける人たちが、満身創痍(そうい)の末に達したいと願う境地を簡潔に表したように思え、胸が熱くなった。(萩博物館特別学芸員)

(2016年4月20日中国新聞セレクト掲載)

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